沖縄をみつめよう2


 沖縄の声を本土のマスコミは全然取り上げない。むしろ旧政権やアメリカの意向に沿った「大きな誤った流れ」を作り出している。


琉球新報より 5月末「断念」 決着は民意を踏まえてこそ 2010年5月12日社説

 一般社会で事件や事故が起きると、加害者は被害者に頭を下げ、過失や罪をわびる。被害の程度が大きい場合はわびても済まず、一定の罪を償う。それが主権国家にほぼ共通した被害者と加害者の関係であろう。
 ところが日米交渉となると、その常識が通用しないらしい。
 
 沖縄の過重な基地負担の象徴とされた米軍普天間飛行場問題の源流は、1995年の米兵による少女乱暴事件である。2004年の大学構内への海兵隊ヘリ墜落は、返還が遅々として進まない中で起きた。
 惨事の加害者はどちらも米側である。社会常識に照らせば、米側は平身低頭して謝り、沖縄の人々の「異議申し立て」に誠実に耳を傾けなければならないはずだ。
 現実はどうか。ヘリ基地機能の移設先をめぐり、米側が厳しい条件を突き付けてくる。これに日本政府がたじろぎ、まともに言い返せないという構図である。
 それはおかしい。どうして鳩山由紀夫首相は「問題を大きくしたのはあなたたちですよ。少しは自覚しているのですか」と、ただせないのだろうか。問題解決への道筋は、被害側である日本が加害側の米国に対し、より強く迫らないことには描けまい。
 
 鳩山内閣は、米国に加え関係自治体の合意を取り付ける形の5月末決着を断念する方針を固めたという。
 確かに、世界一危険な普天間飛行場は早期に撤去してもらわないと困る。しかし、それは県民大会や県議会での全会一致決議などで示された「国外・県外移設」の民意を十分に踏まえた上での話だ。
 5月末の期限に縛られるあまり、拙速に“県内閉じ込め”を政府案としたところで、何ら問題の解決にならない。民意に沿った決断をしてこそ決着であり、日米両政府とも勘違いしないでほしい。
 断念すべきは危険の「県内たらい回し」であって、そこを日米協議のスタート地点とすべきだ。
 普天間の基地機能については米領グアムの州知事や、米自治北マリアナ諸島の知事が受け入れを表明し、鳩山首相あての親書を民主党議員に託している。
 海兵隊の沖縄駐留に確たる根拠を示し得ない今、グアムやテニアンへの移設案を排除する理由はない。日米協議のテーブルに乗せ、実現性を追求してもらいたい。


内外知性の眼―時代の流れを読む<10.05.06>100425、9万人県民大会を支える意志の力 <親川志奈子>

<おやかわ しなこ;沖縄在住大学院学生>

2010年4月25日読谷村、9万人が集結した県民大会が開かれた。

政府に対する警告の想いを身に着けた黄色い人々が何時間も何時間もとめどなく会場に入ってきた、沖縄に電車や地下鉄はなく、会場へは路線バスの他には市町村が出すバスや自家用車で乗りつけるしか方法がない。3時になっても4時になっても、大会が終わった5時になっても6時になっても会場への渋滞は切れず、 3車線ある58号線も、南は北谷まで渋滞が続いた。


 会場となった読谷村運動公園やその周辺にはかつて広大な(191ha)米軍基地があった。今や役所やコンサートホール、運動公園にウージ畑が広がるその土地は、今や国会議員となった山内徳信が村長時代に返還交渉を進め、平成18年に全面返還させたものだ。補足すると村内には今でも基地があり、それゆえ村が分断されている、県民大会会場に向かう道は基地に挟まれた一本道だった。会場近くのトリイステーションには悪魔の部隊の名を持つグリーンベレーが配属、昨年は同部隊所属クライド・ガンがウォーキング中の男性を死亡させるひき逃げ事件が起こった。


 かつて戦争に使われた滑走路が駐車場となり車で満された。制服姿の高校生、揃いのシャツを着たファミリー、黄色い髪をなびかせるギャル、歩いては立ち止まる妊婦、道端で休憩するお年寄り、皆の分のプラカードを持つ青年、私も車を止め彼らに続いた。駐車場に入る一本道を、幸福実現党の街宣カーが何度も何度も往復し渋滞を悪化させていた。


 日本のマスコミは、あたかも沖縄には普天間基地しかない様な報道をする、しかし沖縄島の20%は米軍基地なのだ。今なお基地被害に苦しむ読谷村の、まさに基地だった会場に人々は集結した。仕事、介護、子育て、闘病、様々な理由で参加できない多くの県民は黄色に染まり島中で意思表示をした。「私はシーミーだから行けないけど」、母は名護市にある墓で黄色いリボンを首に巻き私の分まで手を合わせ、黄色いウチカビを燃した。黄色い声はなにも琉球弧の中だけで響いたのではなかった、琉球人ネットワークを通じ日本で、アメリカで、そして世界中で響いた。


 2月の沖縄県議会で普天間基地の国外・県外移設を求める意見書が全会一致で可決され、県民大会壇上には保守や革新の垣根を越え多くの議員たちが座った。自公政権が「沖縄の負担軽減」の名のもとに県内移設を決めてから13年、分断されてきた私たちは紆余曲折の末一つになった。もう何も知らない日本人に「沖縄は基地がないと困る」とは言わせない。ポジショナリティこそ違えども、沖縄の民意は「基地はいらない」に決まった、オール沖縄、私たちは普天間を返還させ新基地を受け入れない。  


 私は会場に入る通路の、がじゅまるの下に座ることにした。会場は前日の雨でぬかるみ、ベストコンディションとは言えなかった。ビニールシートや椅子を持参し日光対策をしてきた人たちはグランドに、お年寄りや赤ちゃん連れそれに敷きものを持たない人たちは木の下に場所を取った。途中、中年男性が「また産経がデタラメ並べるよ、せっかく来てるんだからグラウンドに座って数えてもらわんと」と木陰から人々を引っ張り出していた。県民大会に参加するだけでなく、どう報道されるかまで心配しなければならない私たち。


 大会はスピーチを重ねる度、熱いものになって行った。宜野湾市長が「普天間の閉鎖」を言えば、名護市長、うるま市長は「私たちは受け入れない」と断言。米軍再編計画を作ったドナルド・ラムズフェルドは「歓迎されないところに基地はおかない」と語った、沖縄のどこにも新基地建設はできない、そして徳之島にも。日本人はこれまで押し付け憲法とは言っても押し付け安保とは言わなかった。沖縄に米軍基地を押し付けることで手にした「本土」平和、いつまでもいつまでも痛みを味わう沖縄。もううんざりなのだ、国連の注意勧告通り、沖縄への集中的な基地の押し付けは差別だ。

 
 案の定、翌日の報道は酷いものだった、東京、読売、朝日、産経、毎日を始め米紙に至るまで、新聞の一面に県民大会の航空写真が載った、しかし記事は、「9 万人集まった」「仲井眞県知事が出席」という事実以外には、沖縄の声を載せるではなく、「これで鳩山は八方ふさがりだ」「5月末までに解決できるのか」というトーンだった。
 
 確かに沖縄はこの半年鳩山に翻弄されてきた、しかしその前の65年は保守政権によって虐げられてきたのだ。政治は基地問題を沖縄問題として矮小化し、メディアは「普天間」の3文字を書くことをしてこなかった。日本国民は安保の歪を沖縄に押し付けている事実さえ知らずのうのうと生きてきた。今、沖縄が訴えているのは5月末までの決着ではなく、沖縄の基地負担を減らせということだ。
 

 何度も何度も声を上げ、何度も何度も行動しても結局沖縄の声は「翻訳」され、日本人好みのストーリーに書き換えられる。その悔しさ、痛みを背負い、県民大会会場を包んだあの「基地はいらない」の熱風を手に、私は政府要請行動団100人の中の一人として上京した。

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔eye972:100506〕


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