文化的な一日(第31回京阪・文化フォーラム)


 久しぶりに京都へ行きました。23日13時からの第31回京阪・文化フォーラム「天下統一の夢〜信長と光秀の光と影〜」に参加してきました。会場は京都教育文化センター(京都市左京区聖護院川原町4-13)ホール(定員360名)、最寄り駅は京阪電車神宮丸太町駅下車(5)出口から東へ徒歩約3分(実際は6分程度です)なんと途中に「京都大学iPS細胞研究所(CiRA =サイラ)」がありました。余談ですが、あと20年遅く私が生まれていれば、山中伸弥教授によって病気を治して頂けたのに残念です。
  
   

 予想していた以上に参加者が多い(年代は私±10位の方)。私は断然光秀公派(家系が光秀家来=伝聞ですが敗軍の家来を伝承しているのだから信憑性があると思う)なのですが、世の中は信長派・ファンの方が多そうだ。

 開会20分前に到着もかなりの入りでした。始めから写真撮影が邪魔にならないように最前列と思っていたのですが運よく席が空いていました。 
 第1部が 下坂 守・奈良大学教授(専門は日本中世史。大谷大学大学院修士課程修了。京都国立博物館学芸課長、文化庁文化財部美術学芸課長、帝塚山大学人文科学部日本文化学科教授を経て現職。1948年生まれ)による『信長の天下統一構想〜安土城佐和山城坂本城
 ①織田信長の危機=元亀元年(1570)9月ー宇佐山城ー ②延暦寺焼き討ち=元亀2年(1571)9月ー坂本城ー ③佐和山麓松原の大船=天正元年(1573)5月ー佐和山城ー ④安土山御普請=天正4年(1576)−安土城

 
    

 冒頭、下坂先生が「信長ファンの方が多いと思いますが、私は好きではありません」と大胆発言(笑)。続けて「こんな怖い(神経質=自画像から判断=で独裁者)上司のしたでは働きたくないです」の重ね発言で会場のあちこちで苦笑(案外アンチもいる)。それと「信長と光秀とくれば『本能寺』ですが、これを語れば講演時間がたりません」風な発言もありました。
 結構、歴史・お城好きですが 宇佐山城は知らなかったです。 

 △ミニヒストリー=1570年、摂津で勃発した野田城・福島城の戦い(8月26日〜9月23日)で織田軍主力が投入されている中、浅井・朝倉連合軍は信長の背後を突くべく行動を開始。城主・森可成(よしなり)は近江に居た野府城主・織田信治、青地茂綱らと共に交通の要所である坂本を先に占領して街道を封鎖して連合軍の進軍妨害を試みる。


 浅井・朝倉連合軍3万の兵が坂本口に進軍、9月16日に森可成軍1千兵は宇佐山城を下り坂本の町はずれで合戦となる。この時は大規模な合戦とはならなかったようで、浅井・朝倉連合軍の少々の首を取り一応の勝利をおさめた。しかし、石山本願寺法主顕如の要請を受けた延暦寺の僧兵も連合軍に加わり、9月20日にさらに数の膨らんだ連合軍の侵攻で先鋒の朝倉景鏡を押し返すなど健闘を見せるが浅井対馬・玄蕃の2千に側面から攻撃を仕掛けられ、朝倉中務、山崎吉家、阿波賀三郎の隊に加え浅井長政本隊もこれに加わったためついに崩れ可成、織田信治、青地茂綱の3人は討ち死にする。
 連合軍は同日宇佐山城の攻城に取り掛かったが、城兵の強固な抵抗にあい落城は免れた。

 浅井・朝倉勢は粘る宇佐山城攻略を諦め大津へ進軍。21日には醍醐、山科まで侵攻し、京都まであと一歩に迫った。

 22日になって、信長のもとに「浅井・朝倉勢が織田方の防衛線を突破し京都に迫っている」という急報が届いた。信長は京が浅井・朝倉勢の手に落ちた時の政治的影響を考え、摂津戦線から撤退することを決断した。翌23日には柴田勝家和田惟政を殿(しんがり)とし、京都に撤退した。延暦寺が浅井・朝倉勢の味方をしたことにより、織田軍は早期決戦を行うことができなくなり、明智光秀佐久間信盛を主将として美濃・近江の国衆を中心に比叡山を包囲することになった。


 信長が比叡山包囲のため、身動きがとれなくなっていることを知った各地の反織田勢力はこの機に一気に挙兵することになった。11月21日には長島門徒の攻撃を受けた尾張小木江城で信長の弟信興が討死している。


 信長は反織田の烽火が連なるのを座視することも限界に達しており、11月30日、朝廷と足利義昭を動かして講和を画策した。一方の義景も豪雪により比叡山と本国の越前の連絡が断たれるという問題があり、継戦に不安を持っていた。この為、12月13日になって朝廷と義昭の仲介を受け入れ、信長との講和に同意した。翌14日、織田軍は勢田まで撤退し、浅井・朝倉軍はほぼ3カ月ぶりに高島を通って帰国した。


 信長は拠点は守りきったものの、当初の目的である野田・福島攻めを中断された上、弟の信治・信興や家臣の森可成坂井政尚といった武将を失う結果に終わった。
 一方の義景は、信長を苦境に追い込みながら、豪雪のために撤退することになり、領土を得る事はできなかった。また、延暦寺はこの戦いにおいて信長の通告を無視して浅井・朝倉方についたことが翌年の比叡山焼き討ちにつながることになる。

 この戦いの隙をついて各地で反織田の挙兵があったこと、そして足利義昭が信長の影響下から脱そうとしてこれらの勢力を糾合し信長包囲網を敷いたことにより、以後信長はこの包囲網と戦う事を余儀なくされた。

 以上を見てくると、この戦いが織田信長 対 一向宗本願寺)、比叡山、朝倉・浅井両家との壮絶な確執の根本原因であることが分かります。

 下坂先生の資料1.は間違いぽぃ 日付(1570年9月12日×→9月20日○)

 9月20日 山科言継、午時に摂津国へ発足しようとしたところ、近江国坂本に「越州衆」(朝倉軍)・「北郡高島衆」(浅井軍)・一揆勢ら3万計が出撃したという。森可成(「森三左衛門」:志賀城将)が迎撃し1000計を討ち取るも、小勢600計であったため森可成(「三左衛門」)は「討死」、近江国坂本・大津等が放火されたため山科言継・烏丸光康・柳原淳光ら勅使は発足を延引。〔『言継卿記』四〕

 ちなみに 志賀城佐和山城のこと。

 それにしても、『言継卿記』(ときつぐきょうき)の山科言継はどんな情報網(スパイ)を持っていたのだろう?彼の日記はミステリアスです。