社民党の政権離脱考


2010年6月10日 毎日新聞夕刊より
『鳩山政権崩壊と社民党―日本の左派の甘さを象徴―』 山口 二郎

 普天間基地移設をめぐる紛糾の末、社民党は連立を離脱し、鳩山政権は崩壊した。事態の展開はあまりにも急であったが(政治における責任の取り方について、重要な教訓を含んでいる。
 
 まず社民党の動き方について考えてみたい。福島瑞穂大臣があえて罷免の道を選んだ時、私は1994年の政治改革国会で、当時の参議院社会党左派が造反して選挙制度改革法案を否決した時を思い出した。またやったかというのが最初の印象であった。あの時の造反は最初の非自民連立政権である細川護熙(もりひろ)政権(1993年8月9日から1994年4月28日)の死期を早めた(注:ちなみにこの政権で鳩山由紀夫氏は内閣官房副長官である)。そして、社会党にとってより不利な選挙制度の成立に道を開いた。今回も、鳩山政権がさらに弱体化するだろうと予想した。

 そして、今でも沖縄に犠牲を押し付ける現在の体制がより長く続くことになるだろうと予想している。福島氏が、連立離脱というカードを切ることによって小鳩体制を崩壊に追い込むという野望のもとに罷免の道をひた走ったのであれば、彼女は社民党党首にしておくにはもったいないくらいの政治家である。
 しかし、実際は三振するつもりでバットを振ったらボールが当たってしまい、長打になったということであろう。社民党の身の処し方について、主義主張に殉じた潔いものだという好意的評価もあるかもしれない。しかし、主義主張を純粋に貫くことは、政治家にとって美徳であるとは限らない。
 政治家の最大の使命は、結果を出すことである。
 普天間基地の県外移設という大目標に照らすならば、社民党が節操を貫くかどうかなど、どうでもよい問題である。野党の立場から日米合意を撤回せよと叫んでも、屁の突っ張りにもならないことくらい、与野党を両方経験した福島氏自身が知っているはずである。鳩山政権が泥縄式にまとめた日米合意なるものによって普天間基地移設問題が決着したと考えるのは、大間違いである。鳩山氏が県外移設を主張したことにより、沖縄における反基地感情のマグマほ噴き出した。この変化は不可逆なものである。地域振興予算と引き換えに基地を受け入れさせるという常套手段については、地元経済界も沖縄県庁も拒絶する姿勢を示している。辺野古沖への基地建設には海の埋め立てが不可欠であるが、許可権限を持つ沖縄県知事がそんなことを許すはずはない。問題の決着までにはこれからいくつもの山を越さなければならないのである。その時、社民党が政権にいるのといないのとでは、同党の影響力には雲泥の差がある。

 政治的判断の下し方は、そう複雑な話ではない。自分がある決断を下す時、誰がそれを最も喜ぶか、誰に最も不利益が及ぶかを考えればよい。社民党の政権離脱を最も喜ぶのは、民主党内のタカ派である。 それによって最も損害を被るのは、社民党が代表すると称してきた弱者や沖縄の人々である。
 
 政治家は権力を使うことによって良い政策を実現し、国民から評価を得ようとする。しかし、その場合の称賛は、権力を行使することに伴う批判や攻撃と表裏一体である。称賛だけをいいとこ取りしようとする点に、日本の左派の甘さがある。今回の社民党の行動はその典型例であった。現実主義をわきまえ、責任感を持った左派こそ、日本の政治に必要である。
(やまぐち・じろう=北海道大教授、政治学

この記事にクリックをお願いします。

にほんブログ村 政治ブログ 政治評論へ
にほんブログ村


 社会党(正式名=日本社会党(にっぽんしゃかいとう))ウィキペディア(フリー百科事典)より引用

細川連立内閣の誕生から村山内閣へ
 1993年の第40回総選挙で社会党は新党ブームに埋もれ70議席と大敗した。また、連合は旧同盟系の有力組合が推薦で護憲派・左派を排除する「選別推薦」を行い、新党候補などに票を回した。特に都市部では、東京都で11議席から1議席に激減するなど、「土井ブーム」で得た議席をすっかり失い、55年体制以来最悪の結果となった。

 総選挙後に非自民党の連立内閣・細川連立政権に与党として参加。社会党は与党第一党ではあったが、総選挙で一人負けの状態(他党は共産党が1議席を減らした他は、自民党も含めて全党が現状維持か議席増)だった。このため、与党第一党にもかかわらず首相を輩出することができなかったが、無視できるほど力は小さくないという、与党内でも微妙な扱いを受けることになった。閣僚人事においても、主要閣僚は新生党公明党日本新党等、細川護熙氏をはじめ羽田孜氏、小沢一郎氏、市川雄一氏ら与党内の実力者が所属する政党に独占され、社会党は軽量級の閣僚ポストしか得られなかった。(注:伊藤茂運輸大臣五十嵐広三建設大臣佐藤観樹自治大臣、他上原康輔氏・久保田真苗氏)

 この間、小選挙区制導入に反対した一部議員が離党、新党護憲リベラルを結成。細川首相退陣後、新生党公明党との対立から連立離脱も取りざたされたが、結局は同じ枠組みでの羽田孜政権参加に合意した。しかし首班選挙直後、日本社会党を除く与党各派の統一会派「改新」の結成呼びかけに反発した村山富市委員長(総選挙敗北の責任を取って山花が委員長を辞任したのを承け93年9月に就任)は羽田連立内閣から離脱を決め、羽田政権は少数与党として発足した。

 1994年6月、羽田連立与党は自民党海部俊樹元首相を首班選に擁立、自民党内の分裂を狙ったが、自民党は村山委員長を首班とする自社連立政権樹立を決定。羽田連立与党との連携を重視する社会党議員も、自党党首首班には抗しきれず、海部に投じた議員はごくわずかにとどまった。政権奪回に執念を燃やす自民党も同様で、決選投票の結果村山の首班指名が決定し、自由民主党新党さきがけと連立した(自社さ政権)、村山政権が発足した。自民党との連立であるうえに、連立首班である以上社会党はもはや現実路線をとる以外になく、村山首相は、就任直後の国会演説で安保条約肯定、原発肯定、非武装中立の放棄など旧来の党路線の180度の変更を一方的に宣言した(後に1994年9月3日開催第61回臨時党大会で追認)。この結果、社会党の求心力は大きく低下し、その後分党・解党をめぐる論議が絶えなかった。

社会民主党
ウィキペディア(フリー百科事典)より引用

自社さ政権時代
 1996年1月日本社会党第64回大会での名称変更決定を受け、同年3月第一回大会を開き成立する。初代党首は村山富市氏、幹事長は佐藤観樹氏。村山内閣総辞職により成立した第1次橋本内閣に参加し、自社さ政権の枠組みを引き続き維持した。成立時はさらに新党を作るための過渡的政党との位置づけだった。佐藤観樹氏ら右派系および一部左派の議員多数は同年成立の旧民主党に参加したが、総選挙を控えた同年9月民主党は左派系長老議員の参加を拒否した。そのため社民党で選挙を戦うことになり、党首も土井たか子氏に代わる。旧支持基盤の労働組合の大半が旧民主党支持に転じたため、土井党首は辻元清美氏ら市民運動出身者を積極的に立候補者に起用し、10月の第41回衆議院議員総選挙では15議席を獲得した。彼女らは「土井チルドレン」と呼ばれた。

 総選挙後は、閣外協力として引き続き連立政権に参加したが、1998年5月に連立政権から離脱した。

 党名変更と自社さ連立政権に批判的な左派勢力は、1996年1月に離党し新社会党を結党している。新社会党に参加した議員・党員の中には、除名処分となった者もいる。

 2006年2月11日、12日の第10回党大会で、自衛隊が「現状、明らかに違憲状態」であり、「縮小を図り」、「非武装の日本を目指す」との内容を含んだ「社会民主党宣言」が採択され、旧社会党時代の1994年に村山首相が打ち出した自衛隊合憲・容認路線は修正され、基本政策はほぼ村山内閣以前に戻った(ただし、福島は2010年3月1日の衆議院予算委員会において、自衛隊憲法上の位置づけについて「(党として合憲か違憲か)結論を出していない」としており、同月12日の参議院予算委員会では、自民党佐藤正久氏の「(自衛隊を)合憲と認めるか」との質問に対して、「閣僚としての発言は差し控えさせていただく」として回答を拒んだが、最終的に「社民党の方針は変わらない。内閣の一員としては内閣の方針に従う。自衛隊違憲ではない」と答弁した[9])。同時に、1993年に政治改革関連4法案に反対し処分された17名のうち離党した者を除く9名の処分を取り消したほか、元党首の村山富市、土井両氏の「名誉党首」就任も決定された。

 2009年第45回衆議院議員総選挙(8月30日投票日)において、民主党が圧勝し、社民党は、国民新党と共に政策合意に基づく歴史的な3党連立政権に参加することになった。この3党合意により、鳩山内閣(9月16日発足)において、党首の福島瑞穂氏の閣僚入り(消費者・少子化担当相)が決定した。基本政策閣僚委員会では事実上の拒否権をもっている。自社さ連立政権以来、分裂と小党化の「長期低落傾向」の中で、自民党民主党の二大政党制が確立していく過程ではあったが、13年ぶりに政党として閣僚入りし、11年ぶりに与党に復帰することになった。また、国土交通副大臣辻元清美氏が就任した。

 2009年12月の社民党党首選挙で福島瑞穂氏は、アメリカ軍普天間基地の問題について、国外や県外への移設を強く主張し、党内の照屋寛徳氏ら国外・県外移設を強く主張する議員に応えたこともあり、福島氏が再選した。

 普天間基地代替施設移設問題は、従来からの社民党の主張である基地の国外・県外への移設を連立政権の中でも主張し、閣僚である党首の福島氏は「鳩山内閣が万が一、辺野古沿岸部に海上基地をつくるという決定をした場合には、社民党にとっても、私にとっても、重大な決意をしなければならない」と述べ、基地問題の解決のために、連立政権からの離脱も辞さない覚悟で基地を国外・県外へ移設させる強い覚悟を示した。

 2009年12月15日、与党3党で基本政策閣僚委員会を開き、民主党が具体的期日を設けることを求めたのに対して社民党は「重要なことは期限ではなく、沖縄県民の負担軽減と、沖縄県民、日本国民の多くが納得するような結論を3党で力を振り絞って出すこと。そうでなければ結局、この問題は解決しない」と述べ拒否したため、米軍普天間基地の移設先に関する方針決定を先送りし、連立3党実務者でつくる協議機関で再検討することを決めた。

 2009年12月24日、社民党は基地をグアムに移転させるために、党内に米軍普天間飛行場の移設問題に関するプロジェクトチームを発足させた。プロジェクトチームは2010年1月中に米グアム島を視察し、米側の普天間移設問題に対する認識を確認するため、ワシントン訪問も検討している。2010年1月10日、福島党首は、来日中の米議会下院外交委員会「アジア・太平洋・地球環境小委員会」の委員長エニ・ファレオマバエガ、マイク・ホンダ、ジョセフ・カオら下院議員と米軍海兵隊を主力とする普天間飛行場移設問題について意見交換した。ファレオマバエガは、会談後の記者会見で「誰もが納得できるような解決につなげるための情報収集を目的に来日した。同移設問題の方針決定は日本の国内問題だが、今後も行方を見守り、解決につなげていきたい」と述べた。

 福島党首は、「環境やジュゴンの問題も大事だが、一番大切なのは沖縄県民の気持ちだ」、「沖縄県民の大多数は県外、国外移設を望んでいると説明した。県民の思いが重要だというファレオマバエガ氏の言葉は沖縄の基地負担を理解しているようで印象的だった」と述べ、米下院での今後の動きに期待を寄せた。

 2010年1月の名護市長選で当選した稲嶺進市長は、当選後、就任あいさつで「選挙中、辺野古の海にも陸上にも新しい基地は造らせないということを訴えた」と同市辺野古への米軍普天間飛行場の移設 反対をあらためて主張した。
 2月24日の沖縄県議会本会議では、「米軍普天間飛行場の早期閉鎖・返還と県内移設に反対し、国外・県外移設を求める意見書」案を全会一致で可決した。これらの世論の動向を受けるかたちで、福島氏からは、沖縄県内の民意を最大限尊重し、場合によっては、5月末決着を先延ばししてでも、慎重な政権運営を図っていきたいという意向が示された。
 また、政審会長の阿部知子氏は、米軍普天間飛行場沖縄県宜野湾市)の移設案として、米領グアムなどに全面移転する「国外移設案」や、国外移設までの期限付きで九州北部の既存自衛隊基地などに分散移転する「暫定県外移設案」など3案を、3月上旬にも開かれる政府・与党の沖縄基地問題検討委員会に提出し、最終調整に臨む方針(「私案」)も示した。

連立解消
 しかし普天間問題で、鳩山首相は結局自公連立政権時代の案に近い内容で政府案をまとめ、福島大臣にも同意の署名を求めたことから、福島大臣はこれを拒否し、内閣府消費者・少子化担当特命大臣を罷免された。

 直後に福島党首が開いた会見で「社民党は沖縄を裏切ることはできない」「数々の犠牲を払ってきた沖縄にこれ以上の負担を押し付けることに加担するわけにはいかない」と述べ署名に応じなかった経緯を説明した。また「言葉に責任を持つ政治をやって行きたい」と述べ上記の重大な決意を実行した社民党と、「国外、最低でも県外」の公約を守らなかった民主党を比較し民主党を批判した。

 これを受け党内では、「党首たる福島氏が罷免された以上連立を維持する意味無し」として、連立解消を求める意見が大勢となり、2010年5月30日に開いた全国幹事長会議で、最終的に民国との連立を解消することを決定した。

 これを受けて琉球新報毎日新聞が合同で緊急の県民世論調査を行った結果、社民党政党支持率が大幅に上昇し10.2%でトップとなった。県内で社民党政党支持率が他党をおさえてトップになるのは初めてである。その調査では普天間基地辺野古移設に反対が84%、賛成が6%となった。