政権交代には投票率の大幅増が必要

asahi.com

 衆院は2009年7月21日午後の本会議で解散された。政府はただちに臨時閣議を開き、総選挙の日程を「2009年8月18日公示、8月30日投開票」と決めた。自民、民主の2大政党が激突する「政権選択選挙」が事実上スタートする。民主党が政権を奪取するか、自民、公明両党が過半数を確保して連立政権を維持するのかが最大の焦点だ。

  衆院本会議は午後1時から開かれ、河野洋平議長が冒頭、解散詔書を朗読した。今回の解散は、内閣の助言と承認による天皇の国事行為を定めた憲法7条を根拠にしている。総選挙は2005年9月、小泉首相(当時)の下、郵政民営化を争点として自民、公明両党が圧勝した郵政選挙以来、約4年ぶり。

 1955年の保守合同以来、細川、羽田両内閣での約11カ月を除き、一貫して政権与党の座にある自民党が政権を維持できるかどうかが最大の焦点。細田博之幹事長は7月21日の記者会見で「勝敗ラインは自公で過半数」と述べた。

 一方、官僚主導からの脱却と「しがらみのない政治」の実現を掲げる民主党は7月21日午前、両院議員総会を開き、鳩山代表が「国民総参加、政治主導で新しい政治を起こす、大きな革命的な総選挙だ。歴史的使命感をもって臨まなければならない」と政権交代への決意を語った。解散直後に全立候補予定者に公認証書を渡し、鳩山氏が記者会見する。民主党参院単独過半数に達していない現状を考慮し、総選挙で衆院過半数を獲得しても、社民、国民新両党と連立を組む方針だ。


 投票率は前回の第44回衆議院議員選挙は小選挙区が67.51%(前回衆院選59.86%)、比例代表が67.46%(同59.81%)と上昇した。 期日前投票は8,962,955人(有権者のうち8.67%)と国政選挙で最高を記録し国民の関心の高さをうかがわせた。それでも70%台に達せず。なお、70%台は第39回衆議院議員選挙(公示日:1990年(平2年)2月3日  投票日:1990年(平成2年)2月18日 改選数:512 選挙制度中選挙区制 投票率:73.31%(男71.93%、女74.61%)・・前回投票率(71.40%)より+1.91%増。 与党=自由民主党:275議席 野党=日本社会党:136議席 公明党:45議席 日本共産党:16議席 民社党:14議席 社会民主連合:4議席 無所属=22議席)である。


第39回衆議院議員選挙の概要(フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』より引用。

 1989年4月の消費税導入後最初の総選挙であり、当初自民党は前回の第38回総選挙での300議席の圧勝からの反動も重なって厳しい戦いになると予測されていた。実際、同年6月の第15回参議院議員通常選挙では当選者数で社会党を下回り、参議院での過半数を大幅に割り込んで大敗北を喫している。しかし、同年秋に一気に進んだ東ヨーロッパ諸国の民主化によりソビエト連邦を中心とした東側社会主義陣営の崩壊が進んだ事で、自民党はこの選挙の争点を「体制選択」と設定する事に成功。好調な経済(「バブル景気」)を享受する国民の反共・保守的意識に訴えかけ、さらに参院選での惨敗から有権者に「もう十分だ」と思わせることにも成功。議席減を小幅に食い止め、追加公認を含めた議席数は286として、衆議院での単独過半数を維持した。

一方、社会党は前年の参議院選挙での圧勝を受け、衆議院での与野党逆転と政権獲得を目指した。しかし、長期低落傾向で党の基礎体力が落ちていたため、新たな候補者選定作業は難航し、特に中選挙区制での過半数議席獲得では絶対に必要な複数候補の立候補方針に対しては現職議員からの抵抗が強かった。また、立候補の勧誘でも、資金難のため落選した場合の生活保障ができず、断られることが多々あったという[1]。土井は選挙協力した社公民と社民連合わせて、定数512に対し社会党で180人、公民社民連の3党で120人、計300人の擁立を見込んでいた[2]。しかし、公民が苦戦を予想して候補者を減らしたことも相まって、公認候補は社会党149人、公民社民連3党で108人、計257人(系列の無所属は29人)と過半数ぎりぎりに留まった。公認だけで338人(保守系無所属は109人)擁立した自民党との体力差は歴然としていた。野党は全体的に、候補を立てる能力が衰退していたといえる。

それでも社会党の当選者は1967年の第31回総選挙での140議席以来の議員数となったが、その半分は公明党民社党などの他野党から奪った議席だった(残りの半分は、自民独占区からの議席奪還が多かった)。特に民社党議席がほぼ半減の惨敗であった。公明党民社党は、社会党が社公民路線と呼ばれる野党連立政権の相手と想定していたが、この選挙で社会党が一人勝ちした事に反発し、社会党との連立政権協議を打ち切った。そして、自公民路線と呼ばれる保守・中道連携路線が定着していった。また、共産党は消費税への反対票が社会党に集中し、自民党による体制選択の争点化でダメージを受けたため、議席数がほぼ半減した。

 なお、この選挙では宗教団体のオウム真理教(現:アーレフ)が「真理党」を結成し教祖の麻原彰晃(本名:松本智津夫)や信徒の上祐史浩など25人を立候補させたが全員が供託金没収の惨敗となった。これにより教団の凶悪化がエスカレートしたと言われている。

 今は中選挙区から小選挙区に変わり、二大政党に有利な面があるが、支持率の差以上に議席差がつく場合もある。今回の大きな争点は「政権交代の是非」である。1955年来の与党対野党 2:1の議席(その意味では1990年の選挙はかなり接近した。これが小選挙区であれば日本社会党の政権が出来たかも知れない。それにしても、70%を超す投票が必要です。自分たちの社会を運営(もちろん主体は国民)を任せられるのが自民公明なのか民主共産社民国民新なのか決断の時を迎えています。