それにしても旧ソ連の意識は第2次世界大戦時と同じだった

 漫画家のいしいひさいち画伯の作品で興味深いというか「底抜け」な笑いを産む作品を今でも覚えている。それは原発事故で生じた「死の灰」を作業員が拾うのだが、それが「ざる」だった。まさしくチェルノブイリ原発4号炉の爆発事故で、この消火や片付け作業に「人海戦術」で向かわせた旧ソ連のやり方は、第2次世界大戦でドイツの電撃作戦であわや首都モスクワの陥落しそうなときに、若者を中心に総動員して、訓練もろくに受けないまま戦場へ駆り立て、数百万人の国民を死なせた。この精神はチェルノブイリでも何ら変わらなかった。
 僕の友人はこの事故当日、偶然に「キエフ」に滞在していた。ロシアの人と同じく事故の連絡はなく、悪いことに原発に近づいていくスケジュールが組まれていた。友人はまもなくガンで亡くなった。因果関係はいまとなっては分からないが、あの地へ行かなければと思う。
 

朝日新聞社説=チェルノブイリ 「起きたら終わり」の怖さ

 人々の記憶は薄れ、若者には学校で習う歴史の一つになりつつある。20年を迎えたチェルノブイリ原発事故は、次の世代にどう伝えていけばいいのか。

 病気の追跡調査に幕を引く動きもあるが、被災者の苦しみは続いている。旧ソ連で起きたこの悲惨な事故の教訓を改めて思い起こしたい。

 事故は、外部の電源が切れた場合を想定した実験中に起きた。原子炉の出力が急上昇して爆発した。炉のふたも屋根も吹き飛び、放射能が高温の蒸気となって大気中に噴き出した。直後の消火作業などの被曝(ひばく)が原因で約50人が死亡した。

 現場周辺は今も立ち入り禁止になっている。その範囲はウクライナベラルーシの2国にまたがり、4千平方キロを超える。京都府ほどの広さだ。疎開者の総数はロシアも含めて40万人にのぼる。

 被災者は移り住んだ先で苦しい生活を強いられている。年金が頼りだが、経済の低迷で国の支援は減っている。

 健康被害も深刻だ。4千人の子どもが甲状腺がんになった。甲状腺の摘出後は毎日、ホルモン剤をのむ。出産への不安がつきまとう。60万〜80万人の人々が事故炉を鉄板で覆う作業などに携わった。その多くが体調不良を訴えている。

 ウクライナベラルーシは国家予算の5%ほどをチェルノブイリ対策に充てているが、なお足りない。生活支援や健康調査には国際協力の強化が必要だ。それは原子力をエネルギーに利用することを選んだ国が共通に負う責任だろう。

 振り返ってみると、事故は世界の原発政策に大きな影響を与えた。原発を持つ国は大事故が起こりうることを学び、備えを進めてきた。

 事故が起きた地区から住民を強制的に立ち退かせることができたのは、広大な国土を持つソ連だからこそだ。日本や欧州の小さな国々では広い土地を無人にすることはできない。社会の混乱は想像を絶するものになるだろう。

 事故後、原発事故の早期通報条約がつくられ、安全規制の枠組みを定めた原子力安全条約もできた。東欧の危険な原発は閉鎖された。原発増設にブレーキがかかり、自然エネルギーに目が向いた。

 日本はこの大惨事から何をくみ取ったのだろう。原子力業界は「事故はソ連の炉だから起きた」と日本との違いを強調し、政府も原発を推進してきた。原発はこの20年で32基から55基に増え、いまでは世界3位の原発大国となった。

 しかし、不安は尽きない。99年、茨城県東海村のウラン加工施設で、ウランを扱う量を間違ったため、一気に核分裂が進む臨界事故が起き、死者が出た。04年には関西電力美浜原発の古いパイプが破裂し、噴出蒸気で作業員が死亡した。原発の寿命を60年に延ばす動きの中で、古い原発のトラブルが相次いでいる。

 チェルノブイリの事故から学ぶべき教訓は、「原発は大事故が起きれば終わり」という緊張感を持つことだろう。そのことを風化させてはならない。

産経新聞=主張 チェルノブイリ 多くの教訓を学び取ろう

 史上最悪の原子力事故から(4月)26日で20年を迎えた。旧ソ連ウクライナで起きたチェルノブイリ原子力発電所4号炉の爆発事故である。

 今も500万人が放射能で汚染された土地で暮らし、環境や社会・経済への影響は現在も続く。これまでに約六十人が死亡した。子供の甲状腺がんも多発した。今後、数10年間で4千−9千人が命を失うと推定されている。

 この大事故による犠牲を無駄にしないためにも、ここから多くのことを学び取り、教訓とすべきである。

 まず、原子力事故は施設の老朽化や運転員のミス以外の原因でも起きるということだ。チェルノブイリ事故は当時のソ連が誇っていた第一級の施設で発生した。技術への過剰な自信と秘密主義が招いた災禍だった。

 原発事故は起こしてはならない。放射能の広がる地域は広大で、影響の続く期間が果てしなく長い。チェルノブイリの余波で、西欧諸国では原発建設が停滞し、原子力離れも起きた。近年、地球温暖化への対応や原油価格の高騰で原子力を見直す機運が高まってきているが、信頼回復に二十年の歳月を要してしまった。

 原子力事故防止の基礎となる「安全文化」という考えは、チェルノブイリの反省から生まれた概念だ。今や世界の共通認識となっている。

 ひるがえって日本での状況はどうだろう。残念なことに11年前の「もんじゅ」事故以来、大きな事故やトラブルがほぼ一年置きに続いている。

 国内の原子炉は20年前の33基から55基に増えた。その半面、運転開始から三十年以上の炉が十基を超えるなど高経年化が進んでいる。

 原子力発電の技術者にも少子高齢化の影響が及び始めている。技術と経験の伝達努力も欠かせない。

 歴史の流れの中で一九八六年は、二十世紀生まれの巨大科学技術が壁に当たった年だった。チェルノブイリの三カ月前にはスペースシャトル・チャレンジャーの爆発事故が起きている。

 二十一世紀において、原子力発電は中国やインドでも活発化する。国境を超えた安全文化の連携が望まれる。

 チェルノブイリ事故を記憶の地平線に沈ませてはならない。被災者の自立につながる援助の継続も必要だ。