政治: 信念なき政治家は去れ


民進党再結集は急がず、「立憲の枝」による選挙連合で戦え
小林正弥 千葉大学大学院社会科学研究院教授(政治学
専制化の完成か、新しい民主主義の黎明か?

 衆院選の結果をどう見て、今後をどのように考えるべきだろうか。政権への不支持が広がっているにもかかわらず、野党分裂の結果、与党は3分の2を維持した。これを見れば、安倍政権が専制化を完成させ、改憲を強行していく危険が現実のものになったということになる。

 このような結果をもたらした前原誠司氏と小池百合子氏の責任は、言いしれぬほど重い。「万死に値する」という批判も出た前原氏が辞意を表明したのは当然だ。

 他方で、「希望の党」は不振で、立憲民主党が躍進した(公示前から40議席増)。3極の構図で見れば、与党の自公は5減、第2勢力の「希望+維新」は10減、第3勢力の「立憲民主+社共」は31増となる。「希望の党」が成功していれば、実際には与党との政策の差は小さいから、大連立を組んだり改憲に協力したりする可能性があった。これが大政翼賛会型の右翼的2大政党化の構図だったが、この芽は潰(つい)え去った。これは自由民主主義にとって好ましいことであり、この点で選挙結果は最悪というわけではない。

 その結果、立憲主義的野党の存在感は増した。公明党と維新の党も減少したから、野党第1党となった立憲民主党をはじめ、立憲主義的政党が憲法改定に一致して反対すれば、与党が3分の2を保っても憲法改定を強行するのは容易ではない。

 しかも立憲民主党の勢いが続けば次の国政選挙では与党を脅かすことになるから、無謀なことはしにくくなるだろう。この新党の躍進は新しい民主主義の黎明を思わせるから、メディアや世論にも影響を与えるだろう。政権のメディアに対する威嚇も効きにくくなるかもしれない。

 こう見ると、この選挙結果には専制化の危険性と民主主義の再生という可能性とが交錯しており、今後の展開によって、改憲にも立憲主義の回復にも向かいうることがわかる。「三国志」の世界にたとえれば、今回の選挙は主人公の第3勢力(劉備たち)が旗をあげて一国(蜀)を作るに至った戦いだろう。しかも第2勢力の「希望の党」は勢いをそがれて、小池代表の右翼的リーダーシップが動揺しているから、この党とも連合して与党と対抗する可能性が現実化した。それを実現するために必要なのは戦略的思考である。

これぞ真の民主主義だ

 立憲民主党の選挙運動には瞠目すべきものがあった。枝野代表の演説には、およそ8000人(最終日の東京・新宿)もの人が自発的に集まり、立錐の余地なくつめかけた。人々の輪の中心で低い踏み台に枝野氏が立って、民主主義の理念を諄々と説き、人々は真剣に傾聴して、思わず涙を流す人も少なくなかった。「上からの政治を草の根からの政治へと変えていく」「真っ当な政治を取り戻しましょう」「新しい民主主義を作っていくために一緒に歩んでいただきたい」と水平的に語りかけ、草の根民主主義を説いたのだ。

 この光景は、日本でようやく真の民主主義が本格的に現出した歴史的瞬間ではないだろうか。人々が殺到して枝野コールが響き渡り、初めて選挙演説を聴きに来た人、初めてボランティアになる人がたくさん現れたという。

 政治家が魂の奥底から不屈の信念を語り、理念を訴えるところに、人々の心が共鳴する。演説を聴いて、心が洗われ、希望と勇気を汲み取り、自ら公共的な世界に関わっていく――これぞ、本来の民主主義の理想だ。政治学では参加民主主義とか、草の根民主主義と言う。

 民主主義本来のダイナミズムは、普通の人々が政治に感動し、そこに夢を抱いて、自らそこに関わっていくところにある。アメリカ政治で言えば、J.F.ケネディの、近年ならオバマの選挙運動がそうだった。このダイナミックなエネルギーを立憲民主党はついに日本において解き放ったように見える。

 他方で、選挙戦最終日の安倍首相の秋葉原での演説は、固いガードに守られて日の丸の旗がたなびく右翼的な色彩の強いものであり、好対照だった。どちらが民主主義にふさわしいだろうか。保守的・右翼的な新聞ですら、選挙当日には枝野演説の写真を一面で使って話題になったほどである。

希望の党の「排除」が甦らせた立憲政治の「希望」――専制化への反撃の狼煙がついにあがった(WEBRONZA)
立憲民主党に必要な理念は「リベラル」ではない――「立憲自由民主主義」を旗印にせよ(WEBRONZA)
枝野幸男代表は「憲政の神」の申し子たりうるか?

 これまで不覚にも私は知らなかったが、枝野幸男(ゆきお)という名前は、祖父が尊敬していた尾崎行雄(ゆきお)にあやかってつけられたものであり、その名前の由来を聞いて物心がついた時から政治家を志望していたという。してみれば、

専制化の完成か、新しい民主主義の黎明か?

 衆院選の結果をどう見て、今後をどのように考えるべきだろうか。政権への不支持が広がっているにもかかわらず、野党分裂の結果、与党は3分の2を維持した。これを見れば、安倍政権が専制化を完成させ、改憲を強行していく危険が現実のものになったということになる。

 このような結果をもたらした前原誠司氏と小池百合子氏の責任は、言いしれぬほど重い。「万死に値する」という批判も出た前原氏が辞意を表明したのは当然だ。

 他方で、「希望の党」は不振で、立憲民主党が躍進した(公示前から40議席増)。3極の構図で見れば、与党の自公は5減、第2勢力の「希望+維新」は10減、第3勢力の「立憲民主+社共」は31増となる。「希望の党」が成功していれば、実際には与党との政策の差は小さいから、大連立を組んだり改憲に協力したりする可能性があった。これが大政翼賛会型の右翼的2大政党化の構図だったが、この芽は潰(つい)え去った。これは自由民主主義にとって好ましいことであり、この点で選挙結果は最悪というわけではない。

 その結果、立憲主義的野党の存在感は増した。公明党と維新の党も減少したから、野党第1党となった立憲民主党をはじめ、立憲主義的政党が憲法改定に一致して反対すれば、与党が3分の2を保っても憲法改定を強行するのは容易ではない。

 しかも立憲民主党の勢いが続けば次の国政選挙では与党を脅かすことになるから、無謀なことはしにくくなるだろう。この新党の躍進は新しい民主主義の黎明を思わせるから、メディアや世論にも影響を与えるだろう。政権のメディアに対する威嚇も効きにくくなるかもしれない。

 こう見ると、この選挙結果には専制化の危険性と民主主義の再生という可能性とが交錯しており、今後の展開によって、改憲にも立憲主義の回復にも向かいうることがわかる。「三国志」の世界にたとえれば、今回の選挙は主人公の第3勢力(劉備たち)が旗をあげて一国(蜀)を作るに至った戦いだろう。しかも第2勢力の「希望の党」は勢いをそがれて、小池代表の右翼的リーダーシップが動揺しているから、この党とも連合して与党と対抗する可能性が現実化した。それを実現するために必要なのは戦略的思考である。

これぞ真の民主主義だ

 立憲民主党の選挙運動には瞠目すべきものがあった。枝野代表の演説には、およそ8000人(最終日の東京・新宿)もの人が自発的に集まり、立錐の余地なくつめかけた。人々の輪の中心で低い踏み台に枝野氏が立って、民主主義の理念を諄々と説き、人々は真剣に傾聴して、思わず涙を流す人も少なくなかった。「上からの政治を草の根からの政治へと変えていく」「真っ当な政治を取り戻しましょう」「新しい民主主義を作っていくために一緒に歩んでいただきたい」と水平的に語りかけ、草の根民主主義を説いたのだ。

 この光景は、日本でようやく真の民主主義が本格的に現出した歴史的瞬間ではないだろうか。人々が殺到して枝野コールが響き渡り、初めて選挙演説を聴きに来た人、初めてボランティアになる人がたくさん現れたという。

 政治家が魂の奥底から不屈の信念を語り、理念を訴えるところに、人々の心が共鳴する。演説を聴いて、心が洗われ、希望と勇気を汲み取り、自ら公共的な世界に関わっていく――これぞ、本来の民主主義の理想だ。政治学では参加民主主義とか、草の根民主主義と言う。

 民主主義本来のダイナミズムは、普通の人々が政治に感動し、そこに夢を抱いて、自らそこに関わっていくところにある。アメリカ政治で言えば、J.F.ケネディの、近年ならオバマの選挙運動がそうだった。このダイナミックなエネルギーを立憲民主党はついに日本において解き放ったように見える。

 他方で、選挙戦最終日の安倍首相の秋葉原での演説は、固いガードに守られて日の丸の旗がたなびく右翼的な色彩の強いものであり、好対照だった。どちらが民主主義にふさわしいだろうか。保守的・右翼的な新聞ですら、選挙当日には枝野演説の写真を一面で使って話題になったほどである。

枝野幸男代表は「憲政の神」の申し子たりうるか?

 これまで不覚にも私は知らなかったが、枝野幸男(ゆきお)という名前は、祖父が尊敬していた尾崎行雄(ゆきお)にあやかってつけられたものであり、その名前の由来を聞いて物心がついた時から政治家を志望していたという。してみれば、私が「憲政の神」たる尾崎からの呼びかけを想像して書いた(「立憲民主党に必要な理念は「リベラル」ではないーー「立憲自由民主主義」を旗印にせよ」)ことは、枝野氏自身の名前の由来にぴったりだったわけだ。

 今回の選挙運動は、まさに尾崎たちの憲政擁護運動の再来を期待させる。もし尾崎がこの運動を見たとすれば、我が意を得たりと思うのではないだろうか。本人が語ったとおり、自分の当選だけを考えるのならば、無所属で立候補する方が簡単だし、その誘惑もあったに違いない。それでも、日本政治の全体状況を考え、多くの人々の願いに応えて彼は立った。

 その時に彼は「不協和音」という欅坂46の歌に自らの思いを託し、一番好きな歌詞をインタビューで聞かれて「一度妥協したら死んだも同然」をあげたという。ここに私心はなかっただろう。その純粋な公共的動機を多くの人々が感じて、声援を送ったのだ。「私にもおごりがあったと反省している」と敗戦の弁を述べた小池氏とは、好対照だ。枝野氏は、「憲政の神」の申し子たるにふさわしい行動を取り、その歴史的な使命を果たしたように見える。

 枝野氏や福山哲郎氏(幹事長)たちが最終日の選挙演説で語ったように、この党の本格的な稼働はこれからだ。死にかけている民主主義を本当に生き返らせることができれば、日本民主主義の歴史においては英雄的行為となろう。この政党から本当に「憲政の神」の衣鉢を継ぐ政治家が現れてくるかどうか、注視していきたい。

民進党再結集論に対して、独自の理念を確立して堅持せよ

 選挙直後から、すぐに岡田克也民進党代表らなどから、民進党再結集論が現れている。これと連携して統一会派などを組むことはむしろ当然に見えるが、「希望の党」当選者も含め民進党系の政治家が安易に一つの政党に戻ってしまうのは賢明な戦略とは言えまい。

 立憲民主党が躍進したのは、民進党内の右派と分かれたことによって、草の根民主主義の理念や、安保法や与党の改憲論への反対、脱原発などの主張をストレートに訴えたからである。この理念の輝きこそが、人々の心を捉えたのだ。

 私は、民主党民進党が衰退したのは当初の理念を喪失したからだと一貫して主張してきた。民進党解党という前原氏の唐突な決断によって、純粋な理念が甦ることが可能になり、立憲民主党が躍進できた。それなのに民進党が再結集して理念や政策が曖昧になれば、人々は再び失望して立憲民主党の勢いがなくなってしまう。これでは元も子もないだろう。

 だから再結集は急がずに、立憲民主党はまずは独自の理念を確立することに傾注すべきだ。私はリベラルよりも立憲自由民主主義を主張すべきだ、と主張した(同上)。「右でも左でもなく、下から」という枝野氏の訴えは、この線に近い。立憲民主党の街頭演説では小林よしのり氏などの保守的な論客が応援して話題になった。このように、立憲主義を尊重する保守的な立場の人々とも連携することは、立憲自由民主主義という理念から見れば正しい戦略である。

 枝野演説では、公平公正なルールを強調するとともに、規制緩和論や自己責任論も批判して、病気などのいざという時のための政策を政治の責任と指摘していた。思想的にはこれは、ネオ・リベラリズム(リバタリアニズム)の批判であり、民進党右派に多かったこの主張と明確に袂を分かったことになる。これも重要だ。だからこそ、介護などの福祉政策を積極的に主張していくことが可能になるのである。

 経済政策としても、アベノミクスに反対して「暮らしを押し上げて経済を良くする」「社会を下から押し上げ、支えていく」というようなビジョンを演説で示した。「エダノミクス」とでも言いたくなるが、経済政策においてもボトムアップ型の発想を示していることになる。

 ここには、ルール遵守とともに下からの支えあいという考え方が見られる。これは、私の支持する思想(リベラル・コミュニタリアニズム)とも遠くはない。このような方向を明確にすることもできるが、それには時間や議論が必要だ。リベラルでもネオ・リベラルでもなく、草の根からの立憲自由民主主義――これを理念として確立することがまずは急務だろう。それを軸にしてこそ、再結集が有意義になりうるのである。

今こそ立憲連合へと向かうべし

 立憲民主党の成立に対して51の小選挙区で候補者を自発的におろした共産党は、21議席から12議席へと後退した。これについて志位和夫委員長は「大局に立って考えれば、日本の民主主義にとって間違いのない判断だった。この判断に一切悔いはない」と述べ、小池晃書記局長は「損得勘定でやっているのではない。憲法を軽んじる安倍政権を倒すためにやっている。見返りは民主主義だ」とした。

 この言葉やこの思いは、自由民主主義という観点から掛け値なしに尊いと評価すべきだろう。共産党は民主主義を尊重する政党だと評価する人々が増えるに違いない。この判断がなければ立憲民主党議席はこれほど増えなかったということが、銘記されるべきだろう。

 第1次安倍内閣の時、民主主義と平和の危機を感じた私は社共に対して、統一候補の形成を提案するとともに、自党の議席を増やすために独自候補を立てようとするのは、つまるところ政党のエゴイズムだと批判した。その観点から見れば今昔の感があり、感慨が深い。自党の議席減を覚悟しても民主主義のために行動した共産党指導部には、今回は敬意を表したい。

 約2年前に私は「立憲民主党」という名称を提案したが、それは共産党の国民連合政府論に対する対抗構想の一環だった(「国民連合政府を超えた平成「維新」の実現を(下)――立憲連合という正義の戦略」)。民主党に明確な理念を樹立して抜本的再生を望むとともに、それが軸となって自由党社民党など他の立憲主義的政党と「オリーブの木」型の立憲主義連合を組み、さらに共産党と閣外協力の形で連携して選挙連合を組むという方式である。

 今、ようやく陣容が整い、この構想が現実性を持つ時節が到来したように思える。民進党が自ら解党して一度死に、立憲民主党という形で力強く生まれ変わったからだ。それが軸になって、参院民進党や元民進党の無所属ネットワーク、「希望の党」ないしその当選者、元自由党社民党などで連携して次の国政選挙で立憲主義連合の核を形成する。その大多数は元民主党員なのだから、これは可能なはずだ。その首班候補は枝野氏になるだろうから、さしずめ「立憲の枝」とでも言えばいいだろうか。

 その上で共産党とも話し合って選挙連合を作り、立憲主義的な統一候補で全ての選挙区を戦うのだ。護憲政党である社民党は、こちらに加わってもよいだろう。立憲連合は護憲を前提にする必要はなく、護憲政党はその一部として加わればいいのだ。

 その際の合意項目の核はもちろん立憲政治の回復であり、安倍政権下の改憲反対、安保法や「共謀罪」などの廃棄、森友・加計学園事件の究明と脱原発だろう。今回の選挙公約から見れば、消費税凍結も加えられるし、平等や公正を重視する草の根重視の経済・福祉政策にも各党とも異存はないように思える。

 それに加えて政治改革の眼目として、選挙制度の改革も入れたらどうだろうか。今回の選挙によって、かねて問題視されてきた衆院小選挙区制度の欠点が露骨にわかるようになったからだ。政権の支持が落ちていて約40%になっているにもかかわらず、与党で3分の2以上の議席を獲得しているという事態が、その端的な表れだ。かつての中選挙区制度に戻ることも、あるいは比例代表区中心にすることも考えられる。

 今回も沖縄や新潟など野党統一候補が成立した地域では小選挙区において高い比率で野党候補が当選したように、野党共闘の効果は多大だ。ただ、共産党を軸にする連合方式では政権交代の実現は難しい。立憲主義連合こそ、民主主義再生への戦略ではなかろうか。このような具体的展望を生み出した点で今回の選挙には大きな意味がある。闇が深い時にこそ、光は眩しく輝くのである。

 それでも事態は予断を許さない。再び圧倒的な多数を得た政権は、様々な権謀術策を駆使するだろうからだ。専制化の完成か、それとも立憲政治の再生か――憲法改正をめぐって、このせめぎあいが、今後の政治の中心軸になるだろう。



松尾貴史のちょっと違和感

衆院選「希望」惨敗 「鉄の天井」とうそぶける神経

2017年10月29日 04時02分(最終更新 10月29日 05時15分)

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松尾貴史さん作
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 衆院選が終わり、一瞬「希望の党」に風が吹いたかと思えば、235人の候補者を立てたにもかかわらず、選挙期間中の小池百合子代表の言動や周辺の出来事などもあって失速し、結果は比例も含めて50議席という結果になった。

 結果がわかる頃合いには、小池氏は東京都知事としての仕事だとかでパリにいて、生中継で感想を求められ、珍しく殊勝に語り謝罪したかのようにも思えた。

 しかしその後、キャロライン・ケネディアメリカ駐日大使との対談で、「ガラスの天井を打ち破ったと思ったら鉄の天井があることを知った」と、まるで日本の社会は女性の社会進出に対する抵抗が大きく、それが彼女の目標達成を阻んでいるかのような感想を語っていたことにいささか驚いた。

 もちろんさまざまな要素はあるだろうけれども、今回の選挙での敗因の主なところは、彼女の言動に起因するものだった。それを海外に向けて、「日本は女性差別の国」とアピールして、何か得があるのだろうか。自己実現でつまずいたという失敗を、それを責めているわけでもない人たちに向けて誤誘導するような日本の貶(おとし)め方は、気持ちがよろしくない。

 ガラスの天井を打ち破ったというけれど、それは都知事になったということなのだろうか。それとも、都民ファーストを設立して都議会で最大会派にしたということだろうか。すると、鉄の天井は何を意味するのか。政権党の党首になるということか、それとも総理大臣になるということか。後者ならば、衆院選に立候補しないという選択をした自身が招いた結果で、鉄の天井でも鉄火丼でも天丼でも何でもない。

 自身の秘密主義や独断専行、資金調達の手法、そして「排除の論理」に、有権者が不快感を覚えたというところが実際ではないか。あれだけ旋風を巻き起こした東京ですら、選挙区はほぼ壊滅だった。中でも、側近中の側近で都知事になる前からずっと行動を共にしてきたかに見えた候補者すら落選の憂き目にあっている。彼も女性差別で落とされたとでもいうのか。

 これは、敗北した党のトップを責める意味合いではなく、この国がまだまともになれる千載一遇の機会であったにもかかわらず、そのオペレーションのまずさでそれをぶち壊したことについて、「鉄の天井」などとうそぶける神経に強い違和を感じたから、「おぼしきこと言わぬは」的に吐露しているのである。責めているけど。

 そこにうかうかと乗った、以前の最大野党・民進党前原誠司代表も情けないの一言に尽きる。方向性を決めてから辞任する意を漏らしているが、この期に及んで、なぜ方向性を自分が決めるような口ぶりでいられるのだろう。そして、元は税金なのだから、民進党で保持していた政党交付金を、いくら、どう使って、これからどう配分するのかはっきりさせてから、今後の方向などに余計な関与をせずに辞めるべきではないか。それをしなければ、これまで党が訴えてきたことに大きく矛盾するだろう。

 そして、「希望」の美辞を選挙の肩書にしたくて、「改憲」やら「戦争法」にたてつきませんと念書に署名をさせられてでも群がりすがった、そもそも民進党の候補者たちの浮足だった迷走も情けなく、滑稽(こっけい)ですらあった。何が彼らにこれほど含羞のない振る舞いを演じさせるのだろうか。希望の候補者なのに、選挙カーから何から立憲民主党のイメージカラーの紺色で走り回っていた候補者も痛々しかった。

 自民党の幹部が「小池と前原に足を向けて寝られない」などと軽口をたたいたという話を聞いたが、野党共闘が継続していれば、もちろん与党は大きく議席を減らしていただろうからまさに本音だろう。野党の側にも「純化して立憲民主が育ったから前原は功労者だ」と評価する人までいるようだが、これは「火災保険がおりたから」と言って火事が起きたことを評価するような話ではないか。(放送タレント、イラストも)