文化的な一日(第31回京阪・文化フォーラム)その3


 講演の目的は、わたしの場合は やはり 明智光秀 である。
その意味においては やや不満?大いに不満だったかな?
  
  


  
  
   右=下坂教授   左=河内教授

 光秀公は、暴力的な面(主殺し・優れた武将)と知的・温厚な面(治世において領民に慕われ、現在に至っても亀岡・福知山・大津市民に顕彰されている)があり出生がミステリアス(というより当時の武士1個人の記録を求めるのは困難)で、最大は「本能寺の変」であろう。この点をじっくり聞きたかったのだけれど、その追究がされなかったのが残念でした。

 亀岡光秀まつり
 戦国時代の智将・明智光秀公は、初代丹波亀山城主として丹波亀山を治め、今日の亀岡の基礎を築きました。亀岡光秀まつりは、この光秀公の遺徳を偲び、市民あげて顕彰する市内最大規模の春まつりです。
 毎年5月3日には、光秀公の勇壮な武者行列を再現する「明智光秀公武者行列」が城下町周辺を練り歩きます。また、巡行コース界隈でのにぎわい茶屋、駅近くの南郷公園でのイベントなど多彩なイベントが目白押しです。

   
     亀岡光秀まつり亀岡市観光協会

 御霊(ごりょう)神社は宝永2年(1705)福知山城下の大榎の下に創祀され大正7年(1918)現在地に遷っています。
祭神は宇賀御霊大神であって元来稲を主宰し給う神を祀ったことから五穀豊穣商売繁昌の神として崇められてきました。
しかしこの本社を御霊神社と云うのは明智光秀公を祀ったことに由来しています。光秀公は織田信長公を倒したことから逆臣の名を史上に遺していますが、彼は丹波に於て諸豪が所々に割拠していたものを平定しその拠点として福知山城を修造し、由良川に長い堤防を構築して其流路を転じ、氾濫を防ぎ、ここに城下町を建築するに当たっては地子を命ずるなど、種々善政を施したので郷民は悦服しました。生前人々に慕われて居たものが冤罪(エンザイ)を蒙った様な場合に、その御霊を慰めようとした御霊社が各地にあり、本社もその一例であります。 6月13日は光秀公正辰祭


  
   


 妻木 煕子(つまき ひろこ、享禄3年(1530年)頃 - 天正4年11月7日(1576年11月27日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての女性。明智光秀の妻。子に光慶(十五郎)、津田信澄室、細川忠興室・珠(細川ガラシャ)がいる。

 本能寺の変の後、明智光秀は、二条御所織田信忠京都所司代村井貞勝らを討ち取り、京都を押さえたが、本能寺の変を知って急遽毛利軍と和睦、備中高松から「大返し」をした羽柴秀吉の軍勢と、天王山の麓山崎で対戦して敗れ、光秀は討たれた。享年55。光秀の世はいわゆる「三日天下」に終わった。信長を討った逆臣、謀反人として世評はよろしくない。
 しかし、菩提寺西教寺では手厚く葬り、妻・一族とともに墓がある。西教寺は信長の比叡山焼き討ち(元亀2年)の際に災禍を被ったが、坂本城の城主光秀はその復興に尽力、総門は坂本城城門を移築し、鐘楼堂の鐘は「陣鐘」と言われる。明智光秀の妻の墓の隣に、芭蕉の「月さびよ明智が妻の咄せむ」の句碑が建っている。
 6月14日には明智光秀公御祥当法要と明智光秀公顕彰会が開かれる。

   
      芭蕉の句碑   

 西教寺(さいきょうじ)は、滋賀県大津市坂本にある仏教寺院。天台系仏教の一派である天台真盛宗の総本山である。山号は戒光山、本尊は阿弥陀如来。 動画=http://www.youtube.com/watch?v=Qjhvqukb1Os (2010年)
 信長による比叡山焼き討ちの後、近江国滋賀郡は明智光秀に与えられ、光秀はこの地に坂本城を築いた。光秀は坂本城と地理的にも近かった西教寺との関係が深く、寺の復興にも光秀の援助があったと推定されている。光秀が戦死した部下の供養のため、西教寺に供養米を寄進した際の寄進状が寺に現存している。
 〒520-0113 滋賀県大津市坂本5丁目13−1 077-578-0013


本能寺の変 四二七年目の真実

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