沖縄をみつめよう


 沖縄タイムス 社説 復帰38年沖縄の終わらない戦後  2010年5月15日

 大宜味村(おおぎみそん)出身の金城健一さん(65)は1962年、全国高校弁論大会に参加し、最優秀賞を受賞した。米国統治下の沖縄の現実をほとんど知らない本土の人たちの前で、切々と復帰を訴えたのである。

 10年後の72年5月15日。復帰が実現したその日に、那覇市の八汐荘で結婚式を挙げた。「子どもや孫に語り継ぎたいという思いがありましたから。結婚式は復帰の日に、と決めていたんです」


 東京・日本武道館那覇市民会館の二会場をつなぐ政府主催の記念式典。那覇市民会館隣の与儀公園では、復帰協主催の大規模な抗議大会が開かれていた。金城さんの友人たちは、ずぶぬれになって集会やデモに参加したあと、結婚式に出席した。

 金城さんは結婚記念日でもある5月15日を毎年、格別な思いで迎えているが、今年は特に「歯がゆくてしようがない」と言う。普天間問題をめぐる鳩山政権の大迷走に、いらだちは募るばかりだ。

 でも、と金城さんは言う。「歴代の総理の中で県外移設を言ったのは鳩山首相が初めてでしょ。鳩山をつぶしたくないんですよ

 
 大きな失望と、かすかな期待。そのかすかな期待さえ消えかかろうとしているときに、それでもなお、歯がゆい思いをしながら、わずかな希望を未来につなごうとしているのである。

 過去の歴史に思いをいたすことがなければ県民の心のひだに触れることはできない。県民の心のひだに触れなければ普天間問題の核心をつかむこともできないだろう。

 日本の約0・6%の面積しかない沖縄に、今なお、日本全国にある米軍基地(専用施設)の約74・2%が集中しているのは、なぜだろうか。


 戦後、米国が沖縄を戦略拠点として位置づけただけでなく、日本側も、米軍の沖縄駐留を強く希望した。

 50年代半ば、大阪や岐阜、静岡などに駐留していた米海兵隊がこぞって沖縄に移駐した。海兵隊を受け入れるために沖縄の各地で用地接収が進められ、米軍基地の面積はほぼ倍増した。

 本土から沖縄への移駐によって本土は負担軽減が進み、そのしわ寄せで沖縄は軍事要塞(ようさい)と化した。

 70年前後の返還交渉の過程でも日本側は、「本土の沖縄化」をおそれ、沖縄への基地封じ込めを主張した事実がある。このようにして基地が沖縄に局地化され、本土と沖縄の著しい負担のアンバランスが生じたのだ。

 日米両政府は戦後、「国益」の名の下に、「抑止力」の名の下に、負担のアンバランスを黙認し、県民に過重な基地負担を強いてきた。

 県民がこの期に及んでもなお、鳩山由紀夫首相にいちるの望みを抱くのは、過去の政治が基地維持政策に終始し、負担軽減に真剣に取り組んでこなかったからだ。

 戦争と戦後占領によって生じたいびつな状態を解消しなければ、歴史の歯車を前に進めることはできない。

 いつまでも「終わりのない戦後」を沖縄県民に負わせてはいけない。

 

この記事に賛同される方はクリックをお願いします。

にほんブログ村 政治ブログ 政治評論へ
にほんブログ村



ランキングに参加しています。愛のクリックを!
にほんブログ村 演劇ブログ 宝塚歌劇団へ
にほんブログ村

【2004年モデル】ELECOM CCD-W96GY CD/DVDウォレット

【2004年モデル】ELECOM CCD-W96GY CD/DVDウォレット