有馬稲子さんと「虞美人」


出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』有馬稲子(ありま・いねこ)さん

 父が共産主義者だったため官憲に追われ、見かねた祖母が4歳の稲子を韓国・釜山にいる父の実姉の下に連れて行く。伯母夫婦は子供がいなかったため養女となる。養母(伯母)中西かねは1916年から1926年にかけて有馬稲子旧字体:有馬稻子)の芸名で宝塚歌劇団に在団(第4期生)していた経歴があり、退団後は藤間流の名取りで日本舞踊を教えていた。養母から踊りと三味線を習う。釜山公立高等女学校入学。終戦後帰国。

 大阪府夕陽丘高等女学校卒業後、1949年、第36期生として宝塚歌劇団入団。入団するまで養母が宝塚にいたことは知らなかった。二代目有馬稲子を襲名。この芸名は百人一首大弐三位の「有馬山 猪名の笹原 風吹けば いでそよ人を 忘れやはする」に由来する。美女揃いの宝塚歌劇団の中でもその類稀な美貌は有名だった。同じ宝塚歌劇団出身の女優・高千穂(たかちほ)ひづる(1948年入団第35期生)さんは「(有馬さんが)あの頃のタカラヅカで一番美人だった」と語っている。在団期間は短かったが、娘役トップスターとして活躍。


 日本経済新聞 私の履歴書 有馬稲子6「宝塚入学」100406より

 昭和23年(1948年)、宝塚音楽学校の入学試験は1000人が受験して70人が合格。倍率は約14倍、70人の中に私がいた。

(中略)入学式に向かう阪急電車の中でとつぜん母から「私も昔タカラヅカにいたのよ」と言われビックリ、そういえばバレエを踊る母の写真をアルバムで見て何だろうと思った記憶はある。母はあまり能弁な人ではなく、自分のことを得意げに話す人ではなかったが、この車内の告白にだけは驚いた。

(中略)初舞台は昭和24(1949)年4月の『黄金の林檎』、せりふは「私は水の精ですよ」のたったひと言。ちなみに八千草薫(やちぐさ・かおる 1947年入団第34期生)さんにも同じようなひと言のせりふがあって、こちらは「私はパンの精ですよ」。
 そしてもうひとつの『南の哀愁』ではオープニングの幕の前で主題歌「タヒチの歌」をソロで歌うことに。残念ながらそれ以来歌の場面は新珠三千代(あらたま・みちよ 1946年入団第33期生)さん、八千草さん、私の「三人娘」でしか付かなくなったので、その出来ばえはおわかりであろう。

 そして昭和26(1951)年、宝塚のレビューを完成させ、かの「すみれの花咲く頃」を天下にはやらせた大演出家、白井鐵造(しらい・てつぞう 1900〜1983)さんの歴史的な名作『虞美人』に出ることになる。原作は長与善郎氏の『項羽と劉邦』で、宝塚初の一本立てで空前のヒット作となるが、私にはまったく違う意味での忘れ難い思い出の作品となった。

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