反省しない検察とマスコミ

 マスコミ(検察リークが根本)の昨年よりの集中報道で、一時は民主党政権奪取も幻になろうとしたが、国民の「自民党はもうごめんだ」の力によって初の国民が選んだ政権が誕生し、これから新しい日本を築いていくこの軸に、またもや「小沢つぶし」に検察・マスコミ連合軍は、たわいもない事件をさも大きな疑惑事件に仕立てなおしたのが今の事件なのだ。

内外知性の眼―時代の流れを読む<10.02.07>恐るべき「権力犯罪」と「ジャーナリズム」の責任<安東次郎>


宗像紀夫氏(元東京地検特捜部長)の指摘した「検察」の敗北

「検察が敗北」したという事実を認識しないまま「小沢は灰色だ」、「辞めるべきだ」という類の議論が続いているので、まず宗像紀夫氏(元東京地検特捜部長)の発言を引用し、今回の捜査の問題点と「検察の敗北」を確認しておこう。

(以下、引用)
<捜査の手法にも疑問が残った。仮に事件が特捜部の見立て通りだったとすれば、捜査上、まず…金の流れがわからなければならなかったはずだ。そのためにはゼネコン側を先に調べ、全容についての供述を得るのが筋だが、今回は小沢氏側に強制捜査をかけてからゼネコン側の大々的な家宅捜査を実施した。順番が違うと感じた。>
<そもそも現職議員を逮捕するからには政治資金規正法違反のような「形式犯」ではなく、贈収賄や脱税など「実質犯」を問うべきだと考える。>
<隠した球がなかったなら、今回、わざわざ石川議員を逮捕する必要性は低かったのではないか。>
<虚偽記載の起訴だけで捜査を終えたのなら、見通しのない捜査だったと批判されても仕方がない。同法違反で簡単に逮捕できるとなれば、検察が議員の生殺与奪を握ることにならないかも心配だ。>
<関与を立証できなかった以上、小沢氏の不起訴は当然の結果だ。…あえて「小沢対検察」という構図でとらえるなら、実質的に特捜部側の敗北と言えるだろう。>
(以上、朝日新聞10年2月5日朝刊5面から引用)


 以上の宗像氏の指摘は大筋で、郷原信郎氏(元特捜部検事)や永野義一氏(元東京地検特捜部副部長)の指摘(朝日新聞10 年1月19日朝刊17面)にも共通することであり、いわば「検察の常識」を述べたものといえる。
しかしこの指摘が正しいのなら、「検察」に追随し、強引な捜査を応援した「マスコミ」も『敗北』したのである。
「マスコミ」は、この「事件」に関する自分たちの『報道』を検証すべきときではないか?なぜ「小沢容疑者」とか、「水谷建設のカネが不動産に化けた」とか、「手帳に受け渡し場所のホテル名が」などという『虚報』が生じたのか?そしてそれが政治にどんな影響を与えているか?
いや「マスコミ」だけではない。「ちきゅう座」でも田畑光永氏が<政界浄化を東京地検だのみというのは情けないが、ここはやむをえない。しっかり調べてほしい>
http://chikyuza.net/modules/news3/article.php?storyid=880
と述べているが、「ジャーナリスト」が検察にエールを送ったり、「検察の捜査」に「期待」したりすると、どうなるか?世論を味方に検察が「しっかり調べる」とどういうことが起こるか?


 石川議員の女性秘書はどのような取り調べを受けたのか
 
 この点で、見過ごせないのは石川議員の女性秘書に対する「取り調べ」の実態だ。上杉隆氏(「週刊朝日」2010/2/12、p.22〜p.24)は次のように伝えている。
(以下、一部かつ要旨のみ。)

上杉氏は、「週刊朝日」(2/5)に「石川議員が事情聴取の際に、検察から子育て中の若い女性秘書をネタに“恫喝”を受けていた」事実を書いた。その号が発売された日、こんどはその女性が「事情聴取」に呼ばれた。
1月26日(火)昼ごろ、石川事務所に「タミノ」を名乗る男から電話があり、女性秘書に検察庁にきてほしいという。
女性秘書が「きょうも押収品の返却ですか?」と確認すると、タミノは「そうです。あとちょっと確認したいことがあるので」と返事。女性秘書はランチバックひとつで検察庁に向かった。ところが検察庁につくと、いままでとは別の部屋に通されて、いきなり「被疑者として呼んだ。あなたには黙秘権がある…」と言われる。

 女性秘書が、他の秘書か弁護士に連絡したい旨を告げると、検事はそれを無視して、逆に、携帯を切るように命じ、眼の前でスイッチをオフにさせたのだ。それが午後1時45分。
検事は女性秘書に小沢と石川が共謀していたことを認めるよう迫り続けた。しかし彼女は、石川が小沢の秘書をやっているときには、他の民主党議員の事務所にいたので、そんなことは知る由もない。その旨を正直に述べると、「いいんだよ、なんでもいいから認めればいいんだよ」、「早く帰りたいなら、早く認めて楽になれよ」などと言われる。
女性秘書は子供を保育園に預けているので、子供を迎えにいかねばならない。せめて電話で連絡をしなければ、と検事に哀願した。すると検事が発した言葉は、「そんなに人生、甘くないでしょ」という台詞だった。
弁護士への通話が許可され、弁護士が検事と交渉して「監禁」から解放されたのは、午後10時45分だった。女性秘書は約10時間「監禁」されていた。
(要旨終わり)


 これが事実なら、まぎれもない犯罪であり、こうした犯罪が「検察」の密室内で行われている、ということだ。
事件とは何の関係もない女性にたいしてさえ、こんな取り調べをするとしたら、逮捕・長期間拘留されたら、ほとんどの人は、「自白」してしまうだろう。
(しかもこの話にはオチが付いている。記事が「週刊朝日」に掲載されると「検察庁」から上杉氏と週刊朝日編集長に「出頭要請」がきたという。ところがこの話が「ツィッター」で拡がると騒動になり、検察は要請をひっこめたのだそうだ。)
この記事に書かれたこと以外にも今回の捜査では「検察官」の法律感覚自体が疑われる件が多々生じているが、検察に「しっかり調べてほしい」などといった「ジャーナリスト」にも「道義的責任」があるのではないだろうか?
上杉氏は次のように言うのである。
<しかし、もっと卑劣なのは、こうした人権侵害を知っていて一文字も一秒も報じない新聞・テレビの記者クラブメディアだ。>


 佐藤元知事関連の取り調べの実態

 こうしたことが例外ではないと思われるのは、佐藤栄佐久福島県知事の事件でも、組織的なでっち上げが行われている(といわれている)からだ。この事件も小沢事件担当の検事が指揮したもので、収賄容疑なのに、二審判決は「贈収賄額0円」という実質無罪判決が出されているので、検察の「取り調べ」の手法が疑われるのは当然だ。
この佐藤氏のサイトに、事件当時の不当な取り調べの状況が、述べられている。
http://eisaku-sato.jp/blg/2010/02/000033.html

(以下一部のみ引用)
<ある会社社長はこう言われました。
「お前らが東京地検に喧嘩を売るなら、こちらも考えがある。/お前らみたいのはどうにでもなるんだぞ。お前には7年くらい入ってもらう。/出てきた頃は会社もなくなっているし家族もばらばらになり浦島太郎のようになるぞ。/そうならないためにも真実を話せ。」
知らない、というと
「お前の立場だったら知らないはずは無い。知らないのなら想像して言ってみろ」
そして想像して言ったとしたら、どうなっていたのでしょうか。
私を支持してくれていた会社の経営者たちは、多数「会社をつぶすぞ、すぐにでもつぶせるのだ」という検事の言葉を聞いています。>
(引用終わり)


「ジャーナリズム」は冤罪・違法捜査の「共犯者」ではないか

 小沢不起訴を報じた5日のメディアは、横浜事件の「実質無罪」を報じていた。あたかも「過去」のことのように。
しかし「冤罪」をつくる構造は、何も変わっていないのではないか。「アカ」呼ばわりすれば、どんな拷問をしてもよかったように、「金権政治家オザワ」なら「犯人扱い」、その「秘書」ならば罪ありというのは、異常ではないか?
5日の新聞(たとえば朝日3面社説)では、小沢批判の後に「検察」への『注文』も見受けれるが、この間の「マスコミ」報道の検証もせずに、「ひとさま」に説教するのはおこがましいのではないか?
繰り返しになるが、検察と『共謀』して小沢氏を「犯人扱い」にしたのだから、「不起訴」になった時点で、検察のみならず、「マスコミ」も批判されてしかるべきと思われるが、如何だろうか?


 官僚の犯罪はまともに報道しない「マスコミ」

 ところで5日には外務省の報償費が官邸に「上納」されていたこと、また神奈川県警で大規模な不正経理があったことなども、報じられているが、こうしたことに対する「マスコミ」の追及は甚だ弱いのはなぜか?
記者クラブを通じ、官僚を情報源としていることで、官僚となれ合い、官僚に逆らう記事は書けないようになっている」という独立系の「ジャーナリスト」たちの「マスコミ」批判は、どうやら的外れではないようだ。


「リベラル派」は、何が「権利」=「正義」かを忘れたのか?

 日本語でいえば、「権利」と「正義」とでは、ずいぶん感じが違うが、横文字にすると両者は同じ言葉(Recht, right)になる。ところが日本のリベラル派は、「レヒト」とは何か、さっぱりわかっていない人が、少なくないようだ。

先に引用したジャーナリストの田畑光永氏は<冗談じゃない。政治資金収支報告書を勝手に改ざんした人間に国会議員たる資格があるというのか>http://chikyuza.net/modules/news3/article.php?storyid=908
 として、石川議員の議員辞職勧告決議を支持するのである。

 しかし、仮に石川議員が有罪になるとしても、それがほんらい議員辞職にあたいする罪であると考えるのは、冒頭の宗像氏の発言をみても、相当の無理があるのではないか?(この点については、郷原信郎氏の以下のインタビュー見解も参照願いたい。)
http://opinion.infoseek.co.jp/article/750


 しかしそれより問題なのは、検察が起訴した段階で、ただちに「有罪!」と決めつける感覚だ。しかもこの場合は、被疑者は国会議員で、国民が選んで議員になったのだ。その議席が検察の判断で左右されるとすれば、そうした政治体制は、「デモクラシー」ではなく、「ビューロクラシー」であろう。
そもそも自分が投票した政党の「幹事長」が気に入らないからといって、検察に「しっかり調べてほしい」と期待するのは、根本的に間違っていないか?すくなくとも、その政党の支持者ではない私には、奇妙に思える。

 言論の自由はきわめて大事だが、言論には責任がともなう。たしかに言論は――直接には――力の行使とは思われない。しかし思慮のない言説が、反響し増幅しあいながら、巨大な暴力となることを忘れてはならないだろう。それはいつか来た道ではないか?

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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