衆議院議員選挙を楽しもう3

 衆議院解散の日(2009年7月21日)、自民党両院議員懇談会で麻生太郎首相が目に涙を浮かべて反省とお詫びをしたことを評価する人(あの反主流派で前日まで麻生やめろと主張していた中川秀直自民党幹事長や武部勉元自民党幹事長も)の多かったことで気をよくした懲りない麻生首相がまたまた「上から目線」で下記の通り発言した。民主党の勝利というより自民党の自滅で終わりそうな衆議院選挙になりそう。有権者の皆さんはよく判断して、こんなことぐらいで政治不信になることなく投票に行きましょう。


7月27日 Business Media 誠より引用。 

 もともと失言の多い政治家である麻生太郎首相。「元気な高齢者をいかに使うか。この人たちは皆さん(青年会議所のメンバー)と違って、働くことしか才能がないと思ってください。働くということに絶対の能力がある。80過ぎて遊びを覚えても遅い。遊びを覚えるなら青年会議所の間くらいだ。そのころから訓練しておかないと、60過ぎ、80過ぎて手習いなんて遅い」と発言してまたまた物議を醸している。


 「働くことしか才能がない」というところが高齢者を揶揄(やゆ)したものと受け取られ、反発を食っているのだが、麻生首相は「発言の一部だけを切り取られた」とまたしても不満顔だ。真意は、元気で活力のある高齢者に社会参加をしてもらって、働ける、そういった機会を与える、そういう場を作る、それが活力ある明るい高齢化社会なんだと言いたかったのだそうだ(朝日新聞の報道による)。


●共感を欠いた発言が多い

 青年会議所という「身内の会合」だからついつい油断したのかどうかは分からないが、それにしても「遊びを覚えるなら青年会議所の間くらい(つまりは40歳まで)だ」とはよく言ったものだ。要するに、それぐらいまで遊べる(だけの資産がある)人間しか遊んじゃいけない、それ以外の人間は働けと言っているようにも聞こえる。


 だいたい麻生総理は、国民に対する共感を欠いた発言が多い。経済財政諮問会議では、自分は毎朝ウォーキングをして体調を保っているが、同じ年齢の連中を見ていると、酒を飲んだりして体を壊している連中がいる。そういった人たちの医療費まで自分が払っている、という主旨の発言をした。これなどは健康保険制度の主旨をまったくわきまえない発言である。もともと健康保険制度は、お互いの助け合い制度であって、健康な人が病気や怪我になった人たちを助ける互助会のようなもの。それにいくら健康に留意していても、怪我しないとも限らない。このような発言は、酒屋でやる与太話の類である。

 こういった発言を、「麻生さんは人を楽しませようとしてつい口が滑る」と弁護する政治記者がいる。森喜朗元首相のときもよくそういう“解説”を聞いた。「神の国」とか「有権者は寝ていてくれたほうがいい」とか、要するに聴衆をエンターテインしようとするあまり、つい言い過ぎるというのである。


 しかしこういった“弁護”は完全にピントが外れている。一介の代議士ならいざ知らず、首相というのは国の指導者であり、国を代表して世界のリーダーと渡り合う存在。もし聴衆を楽しませるために口が滑るような人間なら、そもそもリーダーとしてあまりにも軽い。政治家になって一国の指導者になれば、自分の一挙手一投足がメディアによって子細に報道されることは分かり切った話だ。だからこそ、一言一句おろそかにすることはできないはずなのである。


 そして衆議院を解散して事実上の選挙運動をしているときに、こういった「失言」(あるいは揚げ足を取られるような発言)をすることは、どうしようもなくKYであるということになる。麻生首相がなぜかくもKYなのか。それは政治家として最も重要な資質を欠いているからに他ならない。「共感」である。


政治家に要求される共感



 共感とは英語でempathy。相手を思いやるsympathyとは違って、相手の立場で物事を考えてみる力だ。あの発言を高齢者が聞いたら、気分を悪くする人もいるかもしれないとか、働けない高齢者は「死ね」と言われているように思うかもしれないとか、あるいはこれから「遊び」を覚えようとしている高齢者が麻生さんの発言を「余計なお世話」と怒るかもしれないとか、そういった他の人の気持ちを想像する力である。

 なぜ政治家にこの共感が要求されるのか。それは明白である。政治とは、強者のためにやるものではなく、社会的弱者を守ることで社会をうまく機能させることが使命であるからだ。社会的弱者を放置すれば、社会がうまく回らないことは産業革命の時代から労働争議が頻発した時代を経て、人類が学んできたことである。

 中国で鉄鋼グループの経営者が、大量の労働者をレイオフするといった発言をして殴り殺されるという事件が起きた。現時点での報道を見る限り、この経営者はまるで19世紀末の経営者のような発言をしているし、年俸は300万元(約4200万円)も取っていた(一方、引退した労働者が受け取る年金は月200元〈約2800円〉だったそうだ)。もちろん殺すことを正当化することはできないにしても、このような社会システムの在り方が決して長続きしないことは明白である。新彊ウィグル自治区での暴動も根本に経済格差の問題があるとされている。


 日本が、いま経済格差が拡大しており、そして社会的弱者が生きていくことが大変になっている

とすれば、そうした人々に対する共感を欠いては、次の政権を担う資格はない。


 民主党鳩山代表にその共感能力が本当にあるかないかはまだよく分からないが、もしなければ日本の近未来は考えたくもないほど暗くなるかもしれない。


<テレビウォッチ・スーパーモーニング2009年7月27日>  

またまたそんなことを、と呆れてしまいたくなる『麻生発言』であった。遊説に駆け回るわけでなく、『身内』の団体行脚をこなす首相が、かつて、自身が会頭をつとめたことのある青年会議所の会合で「高齢者の方は皆さんと違って働くことしか才能がないと思ってください」と述べたのだ。


民主党鳩山代表は当然のように「人生はまさにいろいろある。高齢者の方々が働くしか才能がないという言い方はどう考えてもおかしい」と批判する。首相は「私の意図が正しく伝わっていない。元気である活力のある高齢者に社会参加してもらって、働く機会を与える、そういう場をつくる、それが活力ある明るい高齢者社会なんだと申し上げている」と釈明した。

赤江珠緒からコメントを求められた鳥越俊太郎は「僕も人の発言をあれこれ言えないんだけど」と前置きして、「麻生さんの場合、育ちが出てしまう。上から目線で人を見下すようなことを言う。ふつう『何々しか才能がない』という場合は、ほかのことは何もできないと否定的に使う。人の心を逆なでしているような気がする」とした。

松尾貴史はもっときつい。「経営者だったと強調しているけど、人の心を分かる経営者だったのか。『何々しか才能がない』というのは、自分のことを言うときに使う。こういうものの言い方でその人物が分かってしまう。働きたくても働けない若い人がいるのに……」。

「意図が正しく伝わっていない」というより「意図を正しく伝える才能がない」といわれてもしかたないようだ。