先ずは「記者クラブ」解体から

 下部に「ジャーナリズムの本義は権力の監視にある」と上杉隆氏は鋭く指摘しています。なぜ、私がこれを引用するのかといえば17日の日記に記載した 「この「事件」の顛末は、当然辞職で終わると予測された。しかし、外国メディアの映像がなければ、はたしてこうなっただろうか?反応が鈍いのは自民党・政権ばかりではない。現地に随行している記者は何をしていたのだろうかという疑問である。」 とことは同質だからである。本当にジャーナリズムを体現しようとしているのかはなはだ疑問である。人数は少ないが数人の新聞やテレビの記者を知っているが、押し並べて「傲慢」な人である。まさに権力が背広を着ているといった方がいい。世間には汚職や癒着や利権といったことを偉そうに書くが、下にあるように「記者クラブ」の存在が「ガン(癌)」なのだ。なぜ民間会社にすぎない新聞・テレビが公共の建物を借りて家賃も支払わないのか疑問も疑問である。

出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』より 

 記者クラブとは、首相官邸、省庁、地方自治体、地方公共団体、警察、業界団体などに設置された記者室を取材拠点にしている、特定の報道機関の記者が集まった取材組織の事。

 各団体から独占的に情報提供を受ける。記者室の空間及び運営費用は原則各団体が負担・提供し、記者クラブが排他的に運営を行う。英語では該当組織が存在しない為kisha clubと言う。日本の報道の閉鎖性の象徴として、内外から批判されている。

 上杉隆氏は、民主党が政権を獲得すれば、自党の記者会見を非クラブ加盟社外にも開放している以上、官邸記者クラブも開放せざるをえなくなるのではないかと予想し、権力がわから記者クラブ開放を実現されるのは問題であり、そうなるまえに報道機関がすすんで記者クラブ開放をすべきだと主張している。

日経ビジネスより引用
記者クラブは官庁の下部組織なのか〜『ジャーナリズム崩壊』上杉隆著(評:荻野進介)幻冬舎新書、740円(税別)
評者 荻野 進介氏 

 先月、日弁連が、いま進んでいる法曹人口拡大策の見直しを求める緊急提言を発表した。このままのペースで増員を続けると、養成過程にひずみが生じ、質の担保が困難になる、というのが表向きの理由だが、本音のところは、「数が増えすぎると、一人当たりの稼ぎが減る。新参者はもう要らない」という危機感からだろう。

 国家機関に監督されない独自の自治権の所有を自慢げに言い募る日弁連だが、その内実はライバルの数を制限し、無駄な競争を起こさせないための同業者組合、つまりギルドに他ならない。

 しかし、ギルドとしての弁護士会なんて、まだまだ可愛い存在だ。司法制度改革という錦の御旗が翻った途端、一旦は、変わろう、もっと門戸を開放しよう、と健気にも決意したぐらいだから。そう、日本にはもっと結束力の強いギルドがある。新聞・テレビ・通信社の記者しか所属できない記者クラブである。外国のメディアにもその名がとどろき、キシャクラブで意味が通じるというから大変なものだ。

 本書は、そうした日本有数の強固なギルドに属する記者たちの実態を赤裸々に暴き出す。政治家の多くも、ギルドの一員であるとの疑いが濃厚である。

 といっても、眉間に皺寄せて実態を憂うる態ではない。担当政治家が出世すると自分も社内で出世する、人気芸能事務所のトップにひれ伏して写真貸与に及び腰、独自にスクープを獲ったもの、他紙の追随がないことに不安を覚え虎の子のネタを思わずリークしてしまう等々、上杉隆が見聞きした、日本の記者たちの「喜劇の物語集」というふれこみなのだ。上杉は議員秘書出身で、安倍政権の迷走ぶりを活写した『官邸崩壊』(新潮社)で知られるフリーのジャーナリストである。

 記者クラブは、1890年、帝国議会が発足した時、情報を隠蔽しがちな諸官庁に対し、情報公開を求める組織として結成された「議会出入り記者団」を嚆矢とする。戦時中、一旦消滅させられたが、1949年、記者同士の親睦と社交を目的に復活。

 上杉曰く、ここまではよかったのだが、1978年、記者クラブの目的を、新聞協会が「日常の取材活動を通じて相互の啓発と親睦をはかる」と変更した途端、おかしなことになった、というのである。親睦団体から取材の拠点へ、その性格が大きく変わったというのがポイントだ。 その結果、どんなことが起きたか。

 上杉のようなフリー記者や外国人記者の場合、会見の場所にさえ入れなくなってしまった。一度、上杉は自民党本部で開かれた記者会見にこっそり潜り込んだことがあったという。大人しく座っていれば問題はなかっただろうが、挙手して政治家に質問してしまった。するといきなり「会社の名刺を出しなさい」と男が近づいてきて、「フリーランスで所属はない」と答えると、こう言われたという。 「不法侵入だな、あんた」

答え合わせしないと不安だよね? 
 ギルドだから、領域を侵す部外者には強くても、クラブ内では仲良しごっこ、競争を避ける体質が濃厚だ。それが典型的に表れているのが「メモ合わせ」である。政治家の声が聞き取れなかったり、世間が注視する政治家が重要な発言をした場合、自分の取ったメモが正しいかどうか、他社の記者と読み合わせをする。テストが終わった後、教室の片隅で問題の答え合わせをしているガリ勉君を髣髴とさせる。これをやるから、新聞の政治紙面はどれも似たりよったりになるのか。

 あるいは、自分たち以外のメディア、特に出版社系の週刊誌に対する不当な蔑視である。新聞がよく使う「一部週刊誌」という表現にそれがよく表れていると上杉は言う。誌名を明らかにしないのは、週刊誌はメディアにあらず、といった、ちっぽけな面子を保つための行為だろう。これこそ情報源を明示しない日本のマスコミの悪癖であり、結果的に、もっと詳しい情報を知りえたかもしれない読者へのサービスの低下にもつながっている、と指摘する。

 こんな風だから、それを利用して図に乗る役所も出てくる。その典型が宮内庁だ。宮内庁記者クラブでは、記者は聞きたいことを自由に質問することもできず、宮内庁が“ご下賜“下さる皇族の写真や映像を待つのみ。それ以外の撮影は自粛せよ、と厳命し、違反した報道機関に対しては、当分、便宜供与は行わない、という、当の宮内庁が作成したメモを明らかにして、上杉はこう嘆くのだ。

 これが公権力と報道機関のやりとりだと思うといやになってくる。(中略)一体いつから記者クラブは行政の下部組織に位置し、命令を受ける立場になったのだろうか

 こうやって、現場の矛盾を追及していくだけでなく、その筆は報道機関のあり方にまで及ぶ。上杉はニューヨークタイムズの東京支社で働いていたことがあり、その経験が批判の矢の出所になっている。

日本人記者と米国人記者、その決定的な違いは何か。サラリーマンか、ジャーナリストか、というところにあるという。些細なことだが、わかりやすい例がある。

 記者会見における質疑応答の際、米国の記者は名前を告げ、その後に勤務先を付け加えるのが一般的だが、日本人の場合は逆で、勤務先、名前の順。勤務先だけを告げ、質問に移る記者も多い。「ジャーナリストにとって名前は商売道具のはずなのに理解できない」とはある外国人記者の弁。

 上杉が勤務していたニューヨークタイムズの場合、本来の仕事とは別に、フリーランスでの仕事が認められ、平日の勤務時間以外と仕事のない週末をあててよい、とまで明言されていた。ただし、重要な条件があった。それは、「匿名記事は認めない」というものだった。「記事には常に責任がつきまとう。無署名の記事は責任の所在がわからない。そういう記事は書かれるべきではない」という考えからだ。

 片や、新聞記者が匿名で週刊誌に原稿を書き散らかす日本。こうなると、同じジャーナリズムといっても、日米の実態には相当大きな隔たりがあることがわかる。「日本の記者は優良企業のサラリーマン、米国の記者こそがジャーナリストなのだ」と上杉は再三、強調する。

 その違いがよく表れているのが公人のオフレコ取材に対する考え方である。オフレコ(オフ・ザ・レコード)とは、「直接の記事にはしない」といった条件のもとに、被取材者に取材に応じてもらう手法のこと。日本新聞協会はこのオフレコ取材を、真実や事実の深層に迫り、背景を正確に把握するための有効な手段、として認めているが、米国のジャーナリズムは違う。

 ニューヨークタイムズ時代、上杉は自民党の若手議員数名から、良質のコメントを沢山拾ったことがあったが、議員らは誰も自分の名前を出したがらない。仕方なく、そのままコメントを支局長に送ったが、「内容は素晴らしいが、政治家の場合、実名以外は信用できない」と、くずかご行きになってしまったという。

 相手がオフレコ取材しか認めない場合はどうするか。ワシントンポストのブラッドリーという編集主幹とキッシンジャー国務長官との「戦い」のエピソードが秀逸である。

実名NGなら、こいつでどうだ 
 「情報源が自分であることを秘して使うなら」と同紙の取材に応じたキッシンジャーだったが、ブラッドリーは氏名の掲載許可を求め、担当記者を交渉に行かせる。その記者はキッシンジャーに罵倒されながらも粘りに粘って、ついに「実名ではなく、政府高官ということならOK」という譲歩を引き出した。

 ブラッドリーはなおも諦めず、どうにか実名を引っ張り出そうと、今後は自分で交渉したが、結局、決裂。しぶしぶ「政府高官」での掲載を認めた。

 記事には「政府高官の情報によれば」とあり、キッシンジャーの名前は一言も掲載されていなかった。ただ、記事中にはひとりの男の写真が掲載されていて、「政府高官」というキャプションがつけられていた。その写真に写っているのはキッシンジャーその人だった。上杉は言う、〈これがアメリカのジャーナリズムだ〉と。

 こうした主張に記者クラブ所属の記者たちはどう反論するのか。「ジャーナリズム」と一言でいっても、アメリカにはアメリカの、日本には日本のやり方がある、という異議申し立てが考えられるが、「ジャーナリズムの本義は権力の監視にある」という上杉の主張を受け入れる限り、どちらが優れているかは明白だ。

 結局、読者である国民がどちらを支持するか、という問題になるだろう。政府筋や党首脳、関係筋、消息筋……隠語のような言葉でしか書けない記事があるのなら、日本新聞協会は隠語解説集をぜひネット上でもいいから公開してもらいたいものだ。そうでなければ、アメリカのやり方をそのまま導入するわけにもいかないだろうが、もう少し外にギルドを開いてもよいのではないか。

 上杉は、記者クラブに関する協会の見解に、「報道活動に長く携わり一定の実績を有するジャーナリストにも、門戸は開かれるべきだろう」という一文を見つけ、今夏、早速、内閣記者会に加入申請してみるという。結果はどうなっただろうか、ぜひ知りたいものだ。

ジャーナリズム崩壊 (幻冬舎新書)

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