辞任が決まった阪神岡田彰布監督(50)が21日午前、大阪市内の電鉄本社でシーズン終了のオーナー報告を行い、そのまま退団会見に臨んだ。前日20日の試合後の涙について「悔し涙です。1カ月近く葛藤があった。周りが勝てるものと思って見て、ファンも勝てると。そういう中で絶対に勝たないといけない。そんな葛藤が、みんな詰まった悔し涙でした」と話した。

<セCS第1ステージ:阪神0−2中日>◇第3戦◇20日◇京セラドーム大阪

 球児の肩が震えていた。ナインが整列した花道。岡田監督と握手しながら、声を掛けられた。「最後はお前で良かった。お前で終わってくれて良かった…」。涙が止まらなかった。言葉にならなかった。CS第1ステージ敗退の責任を一身に背負う。絞り出すようにウッズに被弾した光景を思い返した。

 藤川「迷惑をかけてしまいました…。何で最後、自分なのかな…。(ウッズには)高めに行って、三振を狙った。やっぱり力がないというか、勝負のアヤでしょう。監督に申し訳ないです。最後、とてつもなく迷惑をかけてしまった」。

 壮絶に散った。両チーム無得点のまま迎えた9回。好投していた岩田からバトンを受け継いで登板した。自らの暴投もあり、1死三塁のピンチになる。森野を内角高め速球で二飛に仕留め、宿敵のウッズと対決。オール速球で勝負した。カウント2−3から高め速球をフルスイングされる。打球はピンポン球のように左翼席上段へ…。「力が正直ないし、力負けやし…」。勝負を決する痛恨の一撃を食らい、京セラドーム大阪は静まりかえった。

 最後の花道を飾るつもりだった。藤川が新人だった99年に、岡田監督は2軍監督に就任。05年にはJFKを築き、不動のセットアッパー。その後、リリーフエースとして独り立ちさせてくれた師だった。V逸の責任を取って辞任が決まったときには「監督以上の監督がいるのかな」と揺れる心を明かした。恩義に報いることができず、悔し涙に暮れた。

 藤川「自分の精いっぱいのことはした。すべて出し切ってのことだし、前を向いてね…。監督ともう少し一緒にやりたかったです」。

 オフには米国で自主トレを行い、肉体改造に着手した。開幕後も奮闘し、チームのスタートダッシュを支えた。北京五輪に出場し、メダルを逃した。そして悪夢の逆転V逸…。力投は実らなかったが、藤川の右腕が今年もまたプロ野球を沸かせた。波瀾(はらん)万丈の1年は、涙とともに幕を閉じた。


敗れた将の体が宙を舞った。阪神は中日に0−2で敗れ、クライマックスシリーズ第1ステージでの敗退が決まった。先発岩田稔投手(24)が8回無失点の好投。0−0で迎えた9回表、2死三塁から守護神・藤川球児投手(28)が、ウッズに決勝2ランを浴びた。今季限りで辞任する岡田彰布監督(50)は、ラストゲームで壮絶に散った。試合後は、ファンに導かれるように自然発生的に全員がグラウンドに出て岡田監督を胴上げ。選手と別れの握手を交わす岡田監督は、号泣した。5年間の集大成。鮮やかな散り方だった。

 負けた。勝てなかった。しかし、なんて温かいフィナーレなのだろう。岡田監督が号泣した。あふれ出る涙をぬぐおうともせず、選手1人、1人が差し出す手をぐっと握りしめた。万雷の「岡田コール」が響き渡る京セラドーム大阪。5年間の監督生活の終わりは、涙に彩られた。

 壮絶なラストゲームだった。0−0の9回。守護神藤川のストレートは、敵の4番に外野席まではじき返された。9回裏の攻撃はクリーンアップが3者凡退、前日2本塁打の愛弟子鳥谷が空振り三振に倒れてのゲームセット。クライマックスシリーズで初戦に続く2戦目の完封負けが、巨人の待つ東京への、有終の日本一への道を断った。

 岡田監督「まあ1点でもとっていれば、か。(1死三塁の)初回だったけどな。最後はもう抑えるとか打たれるとかじゃない。マウンドと打席の勝負。(球児を)送り出したんだから、何も言うことはないよ」。

 いつものゲームのように、試合後の会見に臨んだ。足元にメモ類がこぼれているのを見つけ、質問に応じる前に「誰か落としとるで」と指摘した。特別ではないように過ごしていたが、タテジマを着て口を開くのは、これが最後。ひと言ひと言をかみしめるように、しみじみと話した。

 岡田監督「今、終わったばかり。ゲームを積み重ねて、最後までという気持ちだったけどな。しょうがないわな。振り返れば、ずっと優勝争いして、昨年も一昨年も最後は勝てんかったけど、ある程度目指したチームは作れたかな。短くはない。でもいつの間にか5年たっていたな。悔いがあるとすれば、展開が展開だったからかな。競っていれば、そうでもなかったんかも知れんけどな」。

 過去2年の惜敗を、まとめて取り返すような開幕からの快進撃だった。7月中に優勝マジックを点灯させ、2位巨人には最大13ゲーム差の独走態勢を築いた。

 得点力不足、投手陣の疲弊…。宿敵に追い上げられ、追いつかれ、必死にあらがったが最後にかわされた。8月下旬。父勇郎氏の命日(9月3日)が近づいていたが、毎年欠かさず手を合わせる墓参には出向かなかった。優勝して、おやじに報告する。悲壮な決意はかなわず、逆にユニホームを脱ぐことを決断した。

 雪辱のクライマックスシリーズも、巨人との再戦までたどり着けなかった。試合後、食堂での最後の全体ミーティングで南球団社長と赤星選手会長から花束を渡された。監督室に戻ると壁越しに、ファンの叫び声が聞こえてきた。現役時代の応援曲。「かっとばせ岡田!」。コールに応えるようにドアを開けると、ナインが並んで待っていた。「監督、胴上げしましょう」。

 試合終了から20分後。マウンド付近で5度、宙に舞った。金本、関本、矢野…次々と握手を求められ、こらえていた涙腺が決壊した。涙の終わり。阪神タイガース第30代監督は、過去の誰も体験していない幸せな空間で最後の瞬間を迎えた。【

思わず涙がこみ上げた。全員で監督を胴上げした直後。岡田監督が真っ先に握手を求めたのが金本だった。「ありがとうございました」。満身創痍(そうい)の体でも4番としてスタメンで使い続け、フルイニング出場に理解を示してくれた指揮官へのこみ上げる思い。最後の花道を日本一で飾ることはできず、悔し涙を浮かべながら肩を抱き合った。

 シーズン終盤、昨年オフに手術した左ひざには疲労が蓄積し、痛みに耐えながらグラウンドに立ち続けた。満足な走塁ができなくとも、必死にバットを振り続けた。だが、4度の打席で快音は聞かれなかった。

 悔しさは新井も同じだった。試合終了後、歓喜に沸き立つ三塁ベンチから思わず目を背けた。「1年間だったけど、迷惑ばかり掛けて、何もしてあげられなくて申し訳ない」。五輪から帰国後、腰の疲労骨折でチームを離れ、9月下旬に1軍に電撃復帰。だが、急な実戦復帰に、最後まで満足いくスイングを取り戻すことはできなかった。

 CS第1ステージの期間中は、連日早出特打ちをし、試合後も居残り特打で自分のスイングを取り戻そうと必死に立ち向かったが、この日も塁に出ることはできず。「何も言わずにやりやすいようにやらせてもらって感謝しています…」と目を真っ赤に腫らした。