たしかに悪いことだけれど どうも腑に落ちないな

 
 朝日新聞より引用。

 京都産業大京都市北区)は6月26日、男子学生3人が3月、世界遺産に登録されているイタリア・フィレンツェ歴史地区の大聖堂に落書きしていたと発表した。坂井東洋男学長は「誠に遺憾。学生の処分を含めて早急に対応する」とのコメントを出した。

 3人は現在、19〜20歳の経済、経営、外国語各学部の2年生。3月13日、旅行でサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂を訪れ、最上階の柱に日付と3人の名前、「イタリア旅行記念」「京都産業大学」と油性ペンで落書き。別の2カ所にも落書きした。

 3人は「ほかにもたくさん落書きがされていて(写真参照) 安易な気持ちでやってしまった」と話しているという。大学は3人に謝罪文を書かせ、大使館を通じて大聖堂に謝罪することを検討している。

この大聖堂では、岐阜市立女子短大の学生の落書きが24日に発覚し、短大が謝罪している。


 京産大生の落書きの左横にも落書きが確認される。

J−CASTニュースによると

イタリア・フィレンツェ歴史地区サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂の壁には、各国の言葉で数多くの落書きがされているが、6人(岐阜市立女子短大生)のは、特に目立っていたらしい。

 確かに悪いことだけれど、上記にもあるように各国の言葉で書かれた中で それは漢字は目立つだろう。不思議なのは聖堂の方が何故消さないのか?と言う点だ。

出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』
落書き

問題視される落書き
 歴史的建造物に来訪者が落書きを残すケースは多く、1980年代〜1990年代には日本人観光客らが訪れた国の文化財とされる歴史的建造物を汚損したとして逮捕される事例も度々出て問題視された。万里の長城では、観光客らによる落書き(彫り込んだもの)などにより、風化が進む事が懸念されている。日本の奈良の大仏殿など一般公開されている神社仏閣の汚損も酷く、大阪城でもハングルの落書きが問題視されている。後述のドイツ・ハイデルベルクの学生牢やハイデルベルク城でも本来の落書きのほか、観光客がドイツ語のほか、英語・日本語・中国語・韓国語など様々な言語による落書きを行っている。

 また天然記念物や自然の景観を汚損する落書きをするケースでは、それら傷付けられた動植物の生命を脅かす事態まで発生しているとされる。1989年にサンゴがスクープを目論んだ朝日新聞社カメラマンによって傷付けられ(やらせの項も参照されたし)、大きな社会問題とされたが、同時にサンゴ落書き問題が方々で発生している事もクローズアップされた。 イースター島にあるモアイ像彫りこみ事件も落書きと問題的には同じである。


 迷惑な「落書き」が多いが、歴史的価値(この判断は微妙)のある落書きも存在する。

歴史的落書き
 現代社会にあってモラル低下から文化財などへの落書きによる汚損・破壊が懸念されるが、その一方で歴史的に興味深い落書きがあるのも事実である。以下にその例を挙げる。



古代ローマにおける落書き
 ポンペイに残された選挙の落書き。民衆の話し言葉俗ラテン語で書かれており貴重な資料である。ヴェスヴィオの噴火により埋没したポンペイでは、古代の町並みをそのままの姿で見ることができる。こうして現代に残った古代の建物の壁面には多数の落書きが残されており、古代ローマ時代にはどの町にも同様の落書きがみられたと考えられている。

 落書きのなかには、公職立候補者の選挙の際に各建物に大書された推薦や誹謗の落書きや、剣闘士試合の告知があり、こうしたものは専門の業者の手によって書かれたと考えられている。他方で、酒場の戯言や恋人同士の伝言など一般人の手によると思われる落書きも多く、ここから当時の庶民階層の識字率の高さを指摘する意見もある。[


アンコールワットの侍の落書き
 アンコール・ワット遺跡には、寛永9年(1632年)に同地を訪れた江戸初期の武士・肥前松浦藩士の森本右近太夫が筆と墨で残した落書きが見られる。当時、日本の商人や浪人たちが多数東南アジアに住んでおり、こうした人々によってアンコール・ワットは「祇園精舎」の跡地であるという誤った情報が日本に伝わり、多くの人々が海をわたり祈りのために訪れた。アンコール・ワットはこの落書きが書かれた後に一旦忘れ去られ、1860年にフランス人学者のアンリ・ムーオにより(再)発見された。

「父母の菩提(ぼだい)のため、数千里の海上を渡り…」と記された森本右近太夫の記念の落書きのほか、十数箇所の日本人の落書きが1960年代までは残っていた。一度ポル・ポト派の手によってペンキで塗り潰されていたが、現在では森本右近太夫の落書きはペンキの風化によって再び(部分的ではあるが)読めるようになっているという。2003年11月21日には右近太夫の15代目の子孫がこれに対面を果たした。



ロンドン塔の落書き
 英国のロンドン塔は建築の約1080〜1100年代以降その長い歴史の中でテムズ川の防御を担うと共に、英国王の居城としても、その一部は牢獄(身分が高い人では、使用人を置く事も許される、それなりに恵まれた物では在ったが)としても利用されていた。このため随所に関係者や収容されていた者の落書き(石や漆喰に彫り込んだもの)が残されている。その中には当時の権力闘争に敗れた著名人(権力者)の落書きとするにも余りに緻密なメッセージが見られる。