071009DVD「喜びも悲しみも幾歳月」

 観音埼灯台(かんのんざきとうだい)は、木下惠介監督、佐田啓二高峰秀子主演の映画「喜びも悲しみも幾歳月」(1957年松竹作品)のファーストシーンに登場し、ロケが行われたことでも知られている。
 有沢四郎=佐田啓二 有沢きよ子=高峰秀子 有沢雪野=有沢正子 有沢光太郎=中村賀津雄
 
桂木洋子 カツラギヨウコ (藤井たつ子)
岡田和子 オカダカズコ (きよ子の母)
小林十九二 コバヤシトクジ (観音崎燈台手塚台長)
野辺かほる ノベカオル (手塚台長の妻)
三井弘次 ミツイコウジ (金牧次席)
桜むつ子 サクラムツコ (金牧次席の妻)


俺(おい)ら岬の 灯台守(とうだいもり)は妻と二人で 沖行く船の無事を祈って 灯(ひ)をかざす 灯をかざす

冬が来たぞと 海鳥(うみどり)なけば 北は雪国 吹雪の夜の 沖に霧笛が 呼びかける 呼びかける

離れ小島に 南の風が 吹けば春来る 花の香(か)便り 遠い故里 思い出す 思い出す

星を数えて 波の音きいて 共に過ごした 幾歳月(いくとしつき)の よろこび悲しみ 目に浮かぶ 目に浮かぶ


 上海事変の昭和7年−−新婚(お見合い)早々の若い燈台員有沢四郎ときよ子が、東京湾観音崎燈台に帰って来た。日本が国際連盟を脱退した年=昭和8年には、四郎たちは雪の涯北海道の石狩燈台へ転任になった。そこできよ子は長女雪野を生み(四郎が取り上げた)、2年後に長男光太郎を生んだ。昭和12年には波風荒い五島列島女島燈台に転勤した四郎一家はともすると夫婦喧嘩をすることが多くなった。きよ子は家を出ようと思っても、便船を一週間も待たねばならぬ始末であった。気さくな若い燈台員野津は、そんな燈台でいつも明るく、台長の娘真砂子を恋していたが、真砂子は燈台員のお嫁さんにはならないと野津を困らせた。昭和16年−−太平洋戦争の始った年に有沢一家は、佐渡の弾崎燈台に移り、今は有沢も次席さんとよばれる身になっていた。B29が本土に爆音を轟かす昭和二十年−−有沢たちは御前崎燈台に移り、東京から疎開して来た名取夫人と知合った。まもなく野津といまは彼の良き妻の真砂子が赴任してきた。艦載機の襲撃に幾多の燈台員の尊い命が失われた。戦争が終って、野津夫婦も他の燈台へ転勤になった。それから五年−−有沢たちは三重県安乗崎に移った。燈台記念日に祝賀式の終ったあと、美しく成長した雪野と光太郎は、父母に心のこもった贈物(父にマフラーと母にハンドバッグ)をするのであった。やがて雪野は名取家に招かれて東京へ勉強に出ていった。昭和二十八年には風光明眉な瀬戸内海の木島燈台に移った。ところが大学入試に失敗して遊び歩いていた光太郎は、不良と喧嘩をして死ぬという不幸にみまわれた。歳月は流れて−−思い出の御前崎燈台の台長になって赴任する途中、東京にいる雪野と名取家の長男進吾(貿易商社勤務)との結婚話が持ち出された。やがて二人は結婚して任地のカイロに向う日、燈台の灯室で四郎ときよ子は、二人の乗っている船のために灯をともすのであった。そしてめっきり老いた二人は双眼鏡に見入った。そして、長い数々の苦労も忘れて、二人は遠去かる船に手を振った。旋回する燈台の灯に応えて、船の汽笛がきこえて来た。


 「太陽とバラ」以来久々の木下恵介が自らのオリジナル・シナリオを監督した抒情篇。撮影は木下恵介とのコンビ楠田浩之。主演は「ただいま零匹」の佐田啓二、「あらくれ(1957)」の高峰秀子、「「夢に罪あり」より 処女」の中村賀津雄、「悪魔の顔」の田村高廣、この作品で木下監督に抜擢された有沢正子、伊藤熹朔の娘の伊藤弘子。ほかに桂木洋子、田中晋二、井川邦子仲谷昇、明石潮、夏川静江、坂本武など。色彩は松竹イーストマンカラー。


野津=田村高廣 (野津)真砂子=伊藤弘子 名取進吾=仲谷昇 進吾の母=夏川静江

喜びも悲しみも幾歳月 [DVD]