毎日新聞「記者の目」考

◎本日の記者の目は面白かった。柴沼記者が同僚を批判するという少し画期的な記事だったので並列してみました。

堀江社長批判への反論=柴沼均(デジタルメディア局)毎日新聞 2005年4月6日 東京朝刊

 ◇メディアや商風土に一石−−ネット“特ダネ”発信例も

 ライブドア堀江貴文社長の言動は依然として各メディアの大きな関心を呼んでいる。本欄でも位川一郎(経済部)、渡辺雅春(社会部)の両記者が相次いで堀江氏の姿勢を批判した。しかしそれを読んで私は違和感を抱いた。堀江氏の行動は、今後の日本の商風土とジャーナリズムのあり方を考える上で重要な問題提起だと考えるからだ。
 まず商風土の観点から論じたい。毎日新聞とのインタビューで堀江氏はニッポン放送株買収について「事前に(匿名で)金融庁にも確認している。法を守りながらやっている」と、違法行為にならないよう留意したことを強調。株式公開買い付け(TOB)の精神上問題ないかとの問いについては「精神が規定されているわけじゃない。法の不備とか不備じゃないとかはそもそも我々が判断すべきことじゃない」と語った。
 メディア論専攻の水越伸東大助教授は「堀江氏が日本の商風土に合わないのは事実だが、日本の商風土がいいのかどうかの議論が抜け落ちている」と指摘する。この1年だけでも三菱自動車西武鉄道三井物産など、日本を代表する大企業の違法行為が次々と判明した。メディア界でも第三者名義株問題が発覚し、総務省はテレビ局71社に行政指導を行った。こうした不祥事の背景に「日本の商風土」があることは明白だ。ライブドアの行動は現段階では違法行為ではなく、行政指導も受けていない。
 政財界からも堀江氏への批判が出ているが、首をかしげざるを得ない。フジサンケイグループの企業に在籍経験がある森喜朗前首相は「カネさえあれば何でもいい、というのは今の教育の成果か」と発言した。ごもっともな意見だが、森氏は文部相経験者であり今の教育の成果に責任を持つべき政治家でもある。
 日本経団連奥田碩会長(トヨタ自動車会長)も「カネさえあれば何でもできるというのは日本の社会としてはまずい」と批判した。そのトヨタは3月、ニッポン放送株を、時間外取引TOB価格より高値で全株売却したと報じられた。“李下に冠を正す”というのは、日本の企業風土なのだろうか。
 一方、既存メディアは「ネットはテレビ、新聞を殺します」という堀江氏の意見に猛反発している。本欄で渡辺記者が指摘したように、権力の不正を監視し調査報道で明らかにするのはメディアの第一の使命であり、それに異論はない。ライブドアの小田光康ニュースセンター長補佐も「調査報道には既存のジャーナリストの経験や知識、ノウハウが必要」と認めている。
 しかし、調査報道だけでニュースが成り立っているわけではない。新聞でいえば、スポーツ、娯楽、生活面など多様な分野が盛り込まれている。小田氏は「既存メディアと一緒の土俵に上がるのではない。大きなメディアがやらない身近な話題でも、知りたい読者がいる」と指摘する。
 ライブドアパブリック・ジャーナリスト(PJ)として、一般市民からライブドアのサイト上での記者を募集し研修も行っている。現在は130人ほどだが、最終的には1万人以上を育てる予定だ。同様の試みをしている韓国のオーマイニュースは3万人以上が市民記者に登録している。調査報道は無理だとしても、読者が求める身近な話題は十分集められる。
 ネットが“特ダネ”を発する例もある。3月28日、仙台市で小学校5年生の女児が行方不明となり、両親が記者会見して情報提供を呼びかけた。女児の母親はさらに、ブログ(双方向コミュニケーションのできる簡単なウェブサイト)で「娘を捜してください」と呼びかけたところ、ネット上でまたたく間に情報が広がり少女は無事保護された。母親は「直接の要因は、テレビのニュースだということですが、それも結局はこのブログを応援してくださったたくさんの皆さんのおかげです」と感謝の気持ちをブログに掲載した。
 そのブログがライブドアのものだったというのは、どこか象徴的だ。
 堀江氏を批判する森前首相と同じようなセリフを昨年もよく聞いた。堀江氏がプロ野球界に新規参入を表明した際、「カネがあれば誰でもオーナーになれるわけではない」(渡辺恒雄・前巨人オーナー)といった批判を浴び、最終的には楽天に敗れた。だが、堀江氏が行動を起こさなければ、今の形でのパ・リーグはありえず、球界改革も進まなかったはずだ。
 プロ野球、商風土、そしてメディアのあり方について議論を巻き起こした堀江氏を、私は断固支持する。

やっぱりおかしい堀江流=位川一郎(経済部)毎日新聞 2005年3月29日 東京朝刊

 ◇他者への配慮欠く言動−−人の心、カネで買えない

 ライブドア堀江貴文社長は、同社が2月8日にニッポン放送筆頭株主になって以来、ニュースの主役として扱われ続けている。毎日新聞世論調査では、ニッポン放送の経営権獲得が濃厚になった堀江社長の発言や行動を「支持する」回答が42%あり、「支持しない」の43%と拮抗(きっこう)した(28日朝刊)。特に、堀江氏と同世代の30代で「支持」が56%と高かった。しかし、私はその言動に強い違和感を持たざるを得ない。
 堀江氏のこの間の発言から判断すると、その考え方は素朴な「株主資本主義」に見える。会社を所有し経営方針を決めるのは、お金を出した株主。株主の意見が十分に反映され、「株主の利益」、つまり「株価や配当の上昇」のために企業価値を高める経営が行われれば、結果として消費者サービスも向上し、社員の給料も上がって、四方八方が「ウィン・ウィン」でハッピーになるというわけだ。だから堀江氏は「企業の所有者は株主。株主が誰であろうが文句は言えないはず」と言う。
 この考え方自体は間違っていないし、堀江氏の問題提起は株主の存在を軽んじてきた日本の経営者に反省を迫るものになった。
 ただ、現実の経済社会はそう単純ではなく、株主の利益は他の利害関係者(従業員、取引先、消費者、ひいては社会全体)の利益と常に一致するとは限らない。敵対的買収の場合は特にそうである。株主の判断が間違っていて企業の成長を阻害する場合もありうる。堀江氏はこうした点を無視して「どんな時でも株主が一番偉い」と主張しているように聞こえる。
 3月24日、フジテレビの筆頭株主になったソフトバンク・インベストメント北尾吉孝CEO(最高経営責任者)は「他人の家に土足で上がって仲良くしようと言っているように映る」と堀江氏を評した。同感である。ニッポン放送買収にあたっての堀江氏の他者への配慮を欠く言動は、結果的には経営の失敗、企業価値の低下にも結びつく恐れがあると思う。
 象徴的だったのが、ニッポン放送の社員がライブドアの経営参画に反対する声明を出したことについて、毎日新聞のインタビューで「言わされてるだけでしょ」と述べたことだ。堀江氏はその後、同放送社員にソフトな口調で協力を呼びかけているが、私が社員なら「今ごろ言われても信用できない」と感じるだろう。
 一方、ニッポン放送株を大量取得した東京証券取引所での時間外取引については、株取引に透明性を求める公開買い付け(TOB)制度の趣旨に反するとの批判が相次いだ。堀江氏は「TOBの精神が(時間外取引に関して法律に)規定されてるわけじゃない」(毎日新聞とのインタビュー)と反論したが、違法でなければ道義上、商道徳上の問題は考慮しなくてもよいと考えているのだろうか。
 「(敵対的買収者に株を買われるのが)嫌だったら上場してはいけない」(TBSの番組)と堀江氏は言う。その通りである。フジ、ニッポン放送の脇が甘かったことは否定しようがない。しかし、そのことと、企業が法の精神に沿った行動を求められることは別問題だ。一連の泥仕合の発端は2月8日の時間外取引だった。ニッポン放送が実際にライブドア傘下に入っても、その「成り立ち」に関するマイナスイメージを引きずってゆく可能性があると思う。
 堀江氏の挑発的な発言が一定の支持を集める一つの要因は、今のマスメディアが視聴者、読者の信頼感を十分得ていないところにもあるだろう。新聞報道の現場にいる我々も常に自戒しなければならない。旧秩序の破壊者という意味では、古い政治の構造を「自民党をぶっ壊す」などのワンフレーズで批判して圧倒的な人気を集めた小泉純一郎首相と堀江氏はどこか似ている。しかし、破壊の動機として「お金」以外の要素を感じられないことと、法のすき間をついて登場した破壊者であることが、どうしても気になる。
 堀江氏は著書「稼ぐが勝ち」(光文社)で「人の心はお金で買える」と書いた。他の発言と合わせると、これは本音だろうと推測する。お金が大切なのは当然のことだが、人間にとって価値の「すべて」ではない。お金で心を買われることを拒否する人も世の中にはたくさんいると思う。堀江氏が信念を語るのはもちろん自由で、むしろ堀江氏を新時代のヒーローのように持ち上げる空気が一部にあるのが悲しい。お金以外の価値がしぼんでいくような気がするからである。

ライブドア堀江貴文社長への反論=渡辺雅春(社会部) 毎日新聞 2005年3月17日 東京朝刊  ◇調査報道は新聞の生命だ ブログに使命感あるか

 ライブドアフジテレビジョンニッポン放送株争奪戦は、いよいよ激しさを増している。ライブドア堀江貴文社長(32)の行動やスタイルを批判するつもりは毛頭ないが、「ジャーナリズムは必要ない」という発言には、声を大にして反論したい。いかにインターネットが発達しようとも、ジャーナリズムが存在意義を失うことはない。
 堀江社長毎日新聞のインタビュー(5日付朝刊)に「皆さんが考えるジャーナリズムはインターネットがない前提でのお話なんです。インターネットがない時代はもしかしたら必要だったかもしれない。今は必要ないと私は言い切ってもいいと思う」などと述べた。
 ジャーナリズムは、自由で公正な社会を実現するため、人々に必要な情報を提供することだと考える。その機能がはっきりと表れるのが調査報道である。
 私は「旧石器発掘ねつ造」報道にかかわった。アマチュアの考古学者が約70万年前の日本最古とされた遺跡などで穴を自分で掘って石器を埋め、掘り出すというねつ造を繰り返していた問題だ。記者たちは2カ月以上、発掘現場に張り込むなどの取材を続け、00年11月、この事実を報道した。日本考古学協会は検証作業を実施。03年5月、全国の162遺跡でねつ造があったと断定した。
 70万年前とされた日本列島の人類史はせいぜい2万年前までになり、約20年間にわたる研究が無に帰した。日本の考古学の信頼性は揺らぎ、発掘方法などが見直された。高校教科書「日本史B」全19冊が訂正を余儀なくされ、新聞もこれまでの考古学報道の反省を迫られた。取材は結局、約3年半に及び、40人以上の記者が参加した。
 この考古学者はかつて「100万年前の石器と原人の骨を見つける」と周囲に公言していた。ねつ造が暴かれなければ今ごろ、“100万年前の遺跡”が見つかっていたかもしれない。
 同僚の大治朋子記者によるスクープ「防衛庁リスト」報道(02年5月)も記憶に新しい。防衛庁が情報公開を請求した人の身元を調べ、「反戦自衛官」「反基地運動の象徴」などといった説明を書いたリストを作成していた問題だ。
 当時、国会で審議中だった個人情報保護法案は、民間業者に対して設けられた罰則規定が行政機関にはなかった。政府は「行政機関はそもそも違法行為をしない」と説明したが、スクープ記事は行政機関が違法行為を犯すことを証明した。個人情報保護法案は廃案となり、政府は翌03年、行政機関に対する罰則を盛り込んだ新法案を提出した。
 米ワシントン・ポスト紙のウォーターゲート報道(72年)を持ち出すまでもなく、不正を暴くことで制度の根幹を変えた調査報道は枚挙にいとまがない。いずれも使命感に裏打ちされた記者たちの粘り強い取材がなければ、表に出なかった事実である。
 新聞が今、ジャーナリズムを十分に発揮していると言いたいのではない。日本新聞協会の03年「全国メディア接触・評価調査」で、新聞は「情報内容の信頼性」や「多種多様な情報を知ることができる」などの項目で、テレビ(NHK)やインターネットに劣ると判断された。新聞を読まない人も増えている。新聞はジャーナリズムの原点に立ち返って、不断の研さんに励む必要がある。
 堀江社長も「(新聞は)取る必要もない。携帯とネットのニュースサイトで十分だ」と言う。だが、ニュースサイトの情報を提供しているのは新聞などの既存メディアだということを忘れているのではないか。
 ただインターネットもジャーナリズム的機能を担う可能性はある。注目されるのはウェブログ(ブログ)だ。ホームページより簡単に開設できるウェブサイトで、誰もが情報を発信できるだけでなく、知らない人同士で双方向のコミュニケーションができる。
 趣味の話から、専門家が政治・社会問題を論じるなど、内容は幅広い。米国ではブッシュ大統領の軍歴報道を巡り、ブログが発信した情報からCBSテレビの誤報が明らかになり、幹部が辞任した。影響力を持ち、多種多様な意見の交換が可能なブログには、一種の世論形成機能もある。
 しかしながら、組織的、継続的に社会をウオッチし、報道を続けることがブログでは不可能だ。情報を集め、裏付けを取り、その事実が社会にどのような影響を与えるのかを考慮して報道するのは、訓練を積んだプロのジャーナリストでなければできない。社会は倫理観と責任感を持ったジャーナリズムを必要としている。そう信じる。

僕はウオッチし続けて行きたいな。と言うことで久しぶりに堀江「社長日記」4月5日分より引用

 朝からポータルサイトの定例ミーティング。きょうもがっつり3時間弱。その後某投資銀行来社。続いて執行役員の査定面談。今日も時間ぎりぎり二時間半も掛かってしまう。帰り際、買ったばかりのDVカメラで、記者たちを逆取材。逆取材しているときは質問が穏やかになる。いつもはもっと過激な事を聞かれるのに。。まあ、この内容はそのうちアップします。メディアに都合の良いことだけ切り取られるのも困り物ですからね。最新型のDVカメラは小さくなったなあ・・・・
 夜は、恵比寿の「継之介」で会食。メディア論などを議論したりとか。
議論をすると、客観的に自分の周りのことが分析できるようになる。これまでの社会というのは、目立たずこっそり小ずるい事をやるのが、どうやらビジネスの「王道」だったらしい。それを堂々とやると、批判されるのだが、その批判は小ずるいから批判されるのではなく、これからこっそり小ずるいことを自分ができなくなるから批判されるケースのほうが多いのだ。サークル、あるいは倶楽部に入会してしまい、表向きは紳士的に振る舞い、裏では小ずるいことを繰り返すのは最悪だと思うのだが。