飛鳥京跡

読売新聞より引用 
奈良・飛鳥京跡 非対称 飛鳥の宮殿
寝殿造り原型か 渡り廊下でつなぐ
 奈良県明日香村の飛鳥京跡で、天武、持統両天皇の宮殿「飛鳥(あすか)浄御原宮(きよみはらのみや)」(672〜694年)の中心施設の全容がわかり、県立橿原考古学研究所が8日、発表した。「正殿」とみられる大型高床式建物跡に、東隣に渡り廊下を付けた「脇殿」、西隣に屋根付きの廊下か、吹き抜けとみられる建物がある非対称の構造。後の藤原宮や平城宮は中国様式を取り入れて対称で、渡り廊下でつなぐ構造は寝殿造りを思わせる。過渡期の宮殿の姿が初めて明らかとなったが、正殿との見方などに異論も出ており、今後、論議を呼びそうだ。
 正殿は東西23・5メートル、南北12・4メートルと確定。飛鳥時代で最大級の規模で、柱の本数と配置から南北に庇(ひさし)が付く切り妻造り。北と南の各2か所に階段を設け、床下は黄土を盛って整えてあった。外側四隅には、幡(ばん)(旗)を飾る柱の穴もあった。脇殿は南北12・4メートル、東西6メートルの高床式。渡り廊下は幅6・2メートル、長さ5・4メートル。細長い廊下状建物は長さ9メートル、幅3メートルで、昨年3月に出土した池を北から鑑賞していたとみられる。
 正殿の建物を渡り廊下でつなぐ構造は、平安宮の内裏で天皇が政務を執った紫宸殿(ししんでん)や、生活の場だった仁寿(じじゅう)殿にもみられ、平安中期、貴族の邸宅形式として定着する。同研究所は、これらの原点とみている。現地説明会は12日午前10時〜午後3時。近鉄橿原神宮前駅中央口から随時、臨時バスを運行する。
 井上満郎・京都産業大教授(日本古代史)の話「廊下でつなぐ構造は平城宮などには見られず、意外な発見。平安宮までの過程で、試行錯誤していたことをうかがわせる貴重な資料だ」
◇東西軸の飛鳥流? 中国式と違いくっきり
 奈良県明日香村の飛鳥(あすか)浄御原宮(きよみはらのみや)とみられる宮殿跡で8日、全容が明らかになった中心施設。非対称の建物配置や、建物の南中央に出入り口が設けられない構造など、中国様式を採り入れたほぼ同時期の前期難波宮大阪市中央区)や、後の平城宮などとは違う特異性が鮮明となり、新たな謎も浮かんできた。
 天武、持統両天皇は中国の制度や文化を盛んに採り入れ、律令国家体制を整えた。だが、宮殿として異例の非対称構造について、木下正史・東京学芸大教授(考古学)は「切り妻造りは神社建築も想像させる。天皇が伝統的な神事を行った建物で、中国的な左右対称を意識しなかったのではないか」とみている。
 正殿南側には9本の柱が等間隔に立ち、中国様式にみられる天皇のための中央の出入り口がなかった。さらに、南側は、昨年3月に出土した広大な石敷き広場で、その外側の三重の板塀にも正殿に至る正門が設けられておらず、小沢毅・奈良文化財研究所主任研究官は「南中央に出入り口がない建物を正殿とするには抵抗を感じる」と首をひねる。
 考えられるのは、東西からの出入り。同じ7世紀、飛鳥浄御原宮の前に、大阪湾岸に営まれた前期難波宮平城宮、平安宮がいずれも南北を軸にした中国式の宮殿。これに対し、今回の正殿は、東西方向の太陽の運行など、伝統的な思想に基づいて設計された可能性をうかがわせる。切り妻造りについても、網干善教・関西大名誉教授(考古学)は「正殿といえば、復元中の平城宮大極殿のように東西南北の4面に庇(ひさし)が伸びる重厚な建物を思い浮かべるが……」と疑問を投げかける。
 こうした構造について、飛鳥浄御原宮が、斉明天皇後飛鳥岡本宮(7世紀中ごろ)を増改築したとされることから、伝統的な建物様式が残ったとの見方もある。県立橿原考古学研究所の林部均・主任研究員は「今回の正殿は、残されていた後飛鳥岡本宮の再利用では」と推測する。

中国では唐の時代です。日本は朝鮮とともに歴代中国王朝へ朝貢し、その地位を保全してもらうかわりに文化・学問などあらゆるものを吸収することができた。日本の古代建築=都の造営にあたっては帰化人の技術力に頼らざる得ない状況からも「ミニ中国様式」であるのは仕方ないことである。