明智光秀公は やはり名将


日経ビジネスONLINE 引用

明智光秀の遺産? 江戸時代の介護休暇制度

亀山城址に映る、家族や部下を思いやる武将の面影

殿村 美樹

8年後の2025年、日本は超高齢化社会になるそうです。団塊の世代が75歳以上の後期高齢者になるに伴い、日本の3分の1が高齢者になってしまうため「2025年問題」ともいわれています。

 そんな中、今年から、従来の「介護休業」に加え1日単位でも休める「介護休暇」を認めるよう企業に義務付けられました。ただ「制度はあっても現実には休めないよ」というビジネスパーソンは多いのではないでしょうか。介護休暇がすんなり取れる時代は、まだ遠いのかもしれません。

 しかし介護休暇制度が江戸時代、すでに実施されていた記録を発見しました。しかも当時、介護を引き受けていたのは女性ではなく武士だったというのですから驚きです。

介護は武士が引き受け、祖母にも適用

 介護休暇制度を実施していたのは京都の亀岡市にあった「亀岡藩」。

 まずは、どんな風に実施していたのか、武士が藩に「介護休暇」を願い出た文書をご紹介しましょう。以下は「京火消詰」(消防士のように京都の火消を担う職務)に就いていた伊丹孫兵衛という藩士が京都の「亀岡藩」に介護休暇を願い出た文書で、京都府総合資料だより(2005年10月1日第145号)に掲載されています。

奉 願 口上 之 覚
私 祖 母 義 従 先 比 病 気 之 處 此 其 節 不 相 勝 候 段 申 越 候 、
然 處 老 人 之 義 ニ 付 全 快 之 程 無 覚 束 、
何 卒 存 命 中 暫 茂 看 病 仕 度 詰 先 之 義 御 暇 奉 願 候 義 、
甚 以 恐 入 候 得 共 、 以 御 憐 愍 看 病 之 御 暇 被 下 置 候 様 、
奉 願 候 、 此 段 不 苦 思 召 候 者 可 然 様 御 執 成 可 被 下 候 奉 頼 候 、
以上 、
辰(文政三年) 四 月 十 九 日
                  伊 丹 孫 兵 衛 印
坂 部 四 郎 右 衛 門 殿
西 郷 八 大 夫 殿

京都府総合資料だより2005年10月1日第145号より抜粋)
 上記の内容について、当時の京都府歴史資料課・古文書担当 山田洋一さんは以下のように意訳されています。

 「私の祖母が、先頃から病気で、今も調子がよくないと亀岡から連絡がありました。老人のことですから、全快するとは思えません。なにとぞ、祖母の命があるうちに、暫くでも看病をしてやりたいので、火消詰の休業をお願いします。はなはだ恐れ入りますが、看病のためお暇を下さりますようお願いいたします」

京都府総合資料だより 2005年10月1日第145号より抜粋)

 この申請を受けた亀岡藩は協議を行い、介護の対象者が親でなく祖母であることが問題になったものの、数年前に江戸藩邸に詰めていた大久保という藩士が、祖母が大病のため、亀岡に帰ったという先例があることなどから、認められることになったそうです。

 なお、介護休暇中の仕事は他の藩士により代行され、伊丹孫兵衛は5日間、介護に専念した結果、祖母は快方に向かったため無事に現場復帰したのだそうです。

 つまり亀岡藩は少なくとも2度は介護休暇(休業)を認めていたということです。江戸時代には「士農工商」の身分制度のもと、藩士(武士)は藩の仕事を優先すると思っていたのですが、そうでもないようです。もしかしたら「亀岡藩」が特別だったのでしょうか。

 さっそく私は、亀岡藩があった亀山城址に行ってみることにしました。亀山城といえば・・・そう。あの明智光秀が築城した城です。

一人でも多くの人に知ってもらいたい明智光秀
 JR京都駅から嵯峨線に乗り換えて約20分。川下りで知られる保津峡を越えると数分でJR亀岡駅に到着します。目指す「亀山城址」は駅から徒歩10分ほどのはずですが、駅から城址の姿は見えません。私は不安になって駅の観光案内所に訊くことにしました。

 すると、優しそうな女性が笑顔で駅正面の道を指さし「ここから見える道をまっすぐ歩いて10分ですよ」と言いながら「どうぞ」とパンフレットを渡してくれました。


 私はそのパンフレットを見て驚きました。表紙に大きく「一人でも多くの人に知ってもらいたい明智光秀 京都府亀岡市」と書かれていたのです。市の観光案内所で渡されるパンフレットといえば、楽しそうなイラストや風景写真とともに、「魅力いっぱい○○市」などと書かれているのが一般的です。しかしこのパンフレットはまるで趣が異なっています。しかも「戦国の世を波乱万丈に生きた明智光秀NHK大河ドラマに!署名活動にご協力をお願いします」と書かれたリーフレットが添えられていました。

 どうやら、この町にとって明智光秀は特別な存在のようです。

亀山城址に残る光秀の面影


 明智光秀亀山城を築城したのは440年前の1577年(天正5年)。丹波攻略の居城とするためでした。光秀はその後、丹波を平定したものの1582年(天正10年)に「本能寺の変」を起こし、「山崎の合戦」で秀吉に敗れたため、亀山城はその後、豊臣家の支配下に置かれ、江戸時代には徳川家の支配下で「亀岡藩」の城となりました。

 しかし明治維新後の1873年明治6年)、明治政府の廃城令により廃城が決まり、4年後の1877年(明治10年)に天守閣が取り壊されています。今は宗教法人の管理下に置かれていますが、城址は公開されていて、その中に明智光秀が築いた城の石組みや、かつての亀山城を偲ばせる水郷の風景が残されていました。

明智光秀亀山城に居たのは、築城した1577年(天正5年)から、本能寺の変を起こした1582年(天正10年)まで5年ほどの間だけです。それなのに亀山城址には今も明智光秀の面影が残され、地元の人々は今も明智光秀を慕っておられるのです。440年間ずっと、明智光秀はこの町に生き続けてきたのでしょう。

知られざる5つの功績

 それを裏付けるように、観光案内所で渡されたパンフレットには「光秀の知られざる功績!」が5つ挙げられていました。ひとつずつ、詳しい説明が添えられていますが、とりあえずタイトルだけご紹介しましょう。

1.丹波攻略に着手した光秀がとった、統治者としての手腕
2.国人衆らを家臣として任用
3.人心を掌握し、旧幕臣衆をうまく任用した「光秀の人材抜擢術」
4.校則?社則?いち早く管理システムを確立した光秀の「家中軍法」
5.城下町「亀岡」の都市計画!亀山城築城時における計算された町づくり

京都府亀岡市「一人でも多くの人に知ってもらいたい明智光秀」より抜粋)
 このタイトルだけを見ても、光秀がこのまちや家臣のために尽力したことがわかります。なかでも3番「光秀の人材抜擢術」には「合戦で討ち死にした家臣を列記し、近江国西教寺に供養米を寄進しているのをはじめ、合戦で負傷した家臣に対する疵養生の見舞いの書状がいくつも残っている」とエピソードが添えられていました。どうやら、光秀は家族や家臣をとても大切にする武将だったようです。

今も受け継がれる“家臣を思う心”

 そんな光秀の“家臣を思う心”は江戸時代にもこの地に受け継がれていたのでしょう。だからこそ亀岡藩では介護休暇を認めていたのかもしれません。

 そんな光秀の精神は今の亀岡市にも窺い知ることができます。亀岡市の公式サイトに充実した福祉の内容がズラリと紹介されているのです。市内には介護タクシーが走り、複数の介護施設が整備され、育児のための「イクボス」教育も活発に行われているようで、地元新聞の記事にも取り上げられています。

 明智光秀といえば主君の織田信長を「本能寺の変」で倒した謀叛人というイメージがありますが反面、それが成し遂げられたのは、光秀の家臣たちが「敵は本能寺にあり」の言葉を聞いても疑わず、光秀に従ったからとも言えます。

 家臣たちだって戦国の世を生きる武士です。特に側近の家臣が光秀の行動に「何か変だな」と気づかないなんて、ちょっと考えられません。「敵は本能寺にあり」と聞いて「なぜ、本能寺に向かうのか」と疑問を持った家臣もいたのではないでしょうか。そして「強大な力を持つ信長を討つなんて、とんでもない。もう光秀には従えない」と思って離反しても不思議ではありません。そうなっていたら「本能寺の変」は起こらなかったでしょう。

 しかし家臣たちは何も言わず光秀に従ったのです。「本能寺の変」は家臣の忠義があったからこそ、成し得たともいえるのです。

 最後に、今に語り継がれる明智光秀の名言をひとつご紹介しましょう。

 「あの人物は俺の重臣だが、昔父の領内で農夫をしていた。それを父が登用してまず足軽にした。おそらく、あの時の恩を忘れず、農民だった初心で父の霊を弔っているのだ。武士はすべてああありたい。笑うお前達は馬鹿だ。」

 これからの超高齢化社会にも企業の経営者が光秀のように考えられたら、介護休暇制度にとどまらず、働きやすい職場が整っていくのかもしれません。大切なのは会社が社員を大切に思う心だと、光秀は教えてくれているようです。